hiyo

オッペンハイマーのhiyoのネタバレレビュー・内容・結末

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

Barbenheimerミームに公式が沈黙していることもあって、観たい気持ちは薄くなっていたのですが、広島での試写会とその後の座談会などのレビューをいくつか読んで、やっぱり観るべきだと思って観てきました。
3時間が長いとは感じませんでした。

ラミ・マレックの出演を知らなくて、そんな脇役なのはカメオ出演なの?と思っていたら終盤の大役で納得。

日本だと特に原爆開発に関心が集まるしそういう宣伝になっていたと思いますが、自殺描写があることなど、もう少し注意喚起が必要なのでは。


モノクロとカラーで視点の違いを整理して、オッペンハイマー個人にフォーカスを当てることで彼自身の独善的で傲慢に見える人柄を強調するだけでなく、核開発競争の是非を政治と技術と、倫理ではなく道徳の問題として問う演出になっていたと思いました。

広島や長崎の被曝状況が映らないのは、オッペンハイマー個人の視点だから彼の知り得ないことは映らない、というなら彼女の自殺シーンだって見ていないはずなのにそこは断片的にも映すところに、彼の興味関心の比重があからさまに見えました。
かつて恋した相手の死は苦しみを想像し憔悴するほど取り乱すのに、都市を一つ壊滅させる規模の兵器に関しては被害予測として2〜3万人が提示されても「当初の計算では少なかった」と切り離せてしまう。
というより、いくら理論的に先取りできたとしても、結果を目にしない限り実感が湧かないということなんでしょうか。

ジーンのシーンはずっと痛々しかったけれど、あれもきっとオッペンハイマーの心情を載せた記憶の中のジーンだったからなのかもしれない。

広島や長崎の映像がなかったことは、作品としては納得できましたが、Barbenheimerミームを見ていると入れるべきだったのではと思ってしまいます。


オッペンハイマーは原爆開発によって軍拡競争を加速化させたことへの良心の呵責があったことはわかりましたが、問われるべきはオッペンハイマー個人の道徳的懸念ではなく、社会的・倫理的な責任だと思います。
不当な聴聞会に応じる「彼にとっての意味」もどこまでも個人的で、違和感が残るように描かれていたけれど、作中のオッペンハイマーは頑ななくらい「我々」を主語に語り、個人の言葉は話さないし、クロージングも「我々が世界を壊した」というくらい徹底していて、「我々」が誰なのか気になりました。
「我々」=科学者で、オッペンハイマーは科学者を代表して話しているつもりになっているという傲慢さの演出の一つだったのか、実際そういう人だったのか…

違和感といえば、わたし自身はキリスト教的な価値観に馴染みがないので余計にそうなのだと思いますが、これは映画ではなく事実の話として物理学を究めるべく理論研究を生業としている人をして究極の成果物に対して三位一体(トリニティ)と名づけるところもそうでした。
これは人間が神を気取るという傲慢さの現れなのか、人事を尽くして天命を待つ信仰心の現れなのか、判断がつきませんでした。


無自覚な傲慢さはさりげなくセリフに散りばめられていて、「政治」がいかに民間人を見ていないかを演出していると思いました。
「京都は外そう」に象徴される原爆投下選定会議はその最たるもので、短いシーンですが技術の進歩に人間の倫理が追いついていないことが明らかでした。

7/26のポツダム宣言には「拒否すれば速くて完全な破滅がある」との文言があったにもかかわらず、鈴木貫太郎首相は7/28に「ポツダム宣言を黙殺する」と応答したことで、原爆投下を避ける道を日本に住む民間人を巻き添えに自ら絶ったわけですが、たとえポツダム宣言が出された時点で無条件降伏に日本が応じていたとしても、あの時点で既に軍拡競争に入っていたアメリカは核開発で優位に立つためにも広島にも長崎にも原爆は投下されたのだろうなとよくわかりました。

ロスアラモス建設にしても、「先住民が墓参りに来るだけ」「先住民に返しますよ」という一言で、まるで自分のものかのように人の土地の処遇を語るところにも、オッペンハイマー自身というか植民地主義によって「祖国」を奪い取ったアメリカ人の無自覚な傲慢さが現れていると思いました。
核実験後の土地に、安全に暮らせないなんて誰より研究者がわかってるだろうに。


それにしても、この内容で日本の大手配給が賛否両論を避けて配給権取らなかったのはあまりにも及び腰だし、それ以上にBarbenheimerミームが流行ることが信じられない。
特に後者に関しては、広島の被害について報告するシーンではオッペンハイマーではなくて被爆者を映す必要があったのでは、と思わせました。

日本では日中戦争と太平洋戦争における原爆をはじめとする戦争被害については詳しく知る機会がたくさんあるので、あの演出でもオッペンハイマーが見たものを比較的容易に想像できますが、日本が先の大戦について語るとき日本側の加害をほとんど棚上げしているのと同じように、加害した側はその行為の影響について知る機会が限られることで、「戦争を終わらせた」「米国人を帰還させた」便利な道具として原爆も見てしまうからこそBarbenheimerミームが流行るんだろうな、と思うと「オッペンハイマー」という作品を公開するには社会的に未熟なのではと思いました。

少なくとも、「オッペンハイマー」はそういう無知を教化する意図がある作品ではなかったし、公式もBarbenheimerミームに対してメッセージを出していないところもそれを表していると思います。
hiyo

hiyo