犬たろ

オッペンハイマーの犬たろのネタバレレビュー・内容・結末

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.9

このレビューはネタバレを含みます

1年365日を分で表すと、525600分らしい。私はその中で違和感を覚える2分間がある。それは2日に分けて現れる。一つは、8月6日8時15分。もう一つは、8月9日11時2分だ。

私の故郷である広島市では、両日その時刻になると何の前置きもなく、街中に1分間サイレンの轟音が木霊する。

「ブォーーーーーーーーン」

8月6日の朝、まだ眠っている私を母は「ほら起きんさい」と呼び起こせば、8月9日の昼前、部活動で校庭を走りながら汗を散らしている私を顧問の先生は「おーい止まれー」と呼び止めた。

ある時は眠い目を擦りながら、ある時は額の汗を拭いながら、街中に木霊するサイレンと共に黙祷を捧げたのは、昔の話だ。

私がいま暮らしを営んでいるここでは、その2日間の2分間は何事も起こらない。辺りを見渡しても、至って平穏な日常そのものが流れている。

故郷である広島を離れて今年で10年になるが、平穏無事な日常の中で、8月6日8時15分と8月9日11時2分になれば、私は西に向かって黙祷を捧げるようにしている。

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

広島市の平和記念公園にある原爆慰霊碑には、この言葉が刻まれている。しかし、ある人は「過ちを犯したのはワシらじゃないやんけ!」と涙ながら怒りを露わに、口角泡を飛ばした。

それは理解できる。それでも、私はもう怒り憎しみを誰かや何かにぶつけるのは懲り懲りだと吐息を漏らす。

喩え惨めで無様であろうと、隣人を愛することに努めようと私は決めた。もしそれができないのなら、孤独に喘ぐことも、逃げ出すことさえも厭わない。逃げるは恥だか役に立つと誰かはいうが、私も今はそう思う。

“原爆の父”と呼ばれるロバート・オッペンハイマー(キリアン・マーフィ)は、原爆を投下した広島長崎の経過ないし惨状を報告する映像が流された瞬間、すっと目を背けた。

彼のその心許ない虚ろな眼差しが、まるでピカ(原爆)の閃光で壁面に焼きついた人影のように、私の脳裏に色濃くこびりついて離れない。

広島長崎の惨状が映し出されたスクリーンを一目見て、瞬時に視線を下ろした彼の瞼は、開いたまま微動だにしない。きっと瞼を閉じれば、焼け爛れた人々の酷い姿が迫ってくるからだろう。彼は瞳に焼きついたそれを、必死に上書きするように一点を見つめ続けていたその時、胸の内では何を思っていたのだろうかと彼に思いを馳せながら、私は咽び泣いた。

それは散々見てきた。8月6日近くになれば特別授業が執り行われ、平和学習と題してクラスメイトと共に平和公園の資料館へと足を運べば、どこの遊園地のお化け屋敷よりも怖くてたまらない展示を通り過ぎなければならず、そんな苦行を強いられたのは遠い昔の話でありながら、つい先日のことのように思い出される。

日本に投下された二つの原子爆弾。広島に落とされたリトルボーイ、長崎に落とされたファットマン。この二つが人類史上初めて実戦で使用された核兵器であり、この二つが最初で最後であり続けるように、“過ちは繰返しませぬから”と未来へ紡いでいかなければならない責務ないし重大な忠告を帯びた使命を、今作は担っている。

元広島市民として今作を見届けることは、劇場に足を運ぶまで相当なる覚悟が求められたのは言うまでもない。事前情報は、できる限り予告編のみで留めておくのに躍起となっていたこれまでの数カ月間は、過去に類を見ない酷な期間だった。

映画館の幕間、予告編で『オッペンハイマー』が流れる度に、私は目を閉じた。月日は流れ、アカデミー賞作品賞を筆頭に監督賞や主演男優賞等を獲得し、話題性は鰻上り。

いよいよ日本公開日を迎え、いざ本編を見届けてみれば、人物ないし名だたる俳優たちが、次から次へと現れることに目を剥くばかり。

登場人物の相関図を理解することに多くの時間を費やさなければならず、ある程度の理解が及んできた要点(国家の反乱分子である共産主義者の炙り出し、またはオッペンハイマーに責任を負わせる策略の数々)に狙いを定めて、彼の栄光から没落へと物語をシフトチェンジする匠技に、私は頭を抱えた。

【駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人】という言葉があるように、“原爆の父”と呼ばれた男だけを担ぎ上げて厳しく非難するのは、極めてナンセンス。しかし、彼が殺戮兵器を生んでしまったのも事実であり、広島では17万人、長崎では8万人の人命が奪われたことも決して忘れてはならない。

ノーラン監督は相変わらず難問をこしらえて突きつけてくるが、作品に込められたメッセージは極めてシンプル。

過ちは繰返しませぬから──。

幕間含め上映時間3時間強の大作。これを見届けて抱いた怒りや哀しみ、後悔の念は、“ほぼゼロ”だ。

p.s.

今作の日本配給を担った者とそうでない者の思いや狙い、覚悟は知る由もないが、とにかく私は今作に関わった(関わろうとした)全ての人を全身全霊で讃えたい。
犬たろ

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