こういった「ねずみ小僧」的な閉じ方は大好きだが、それなら『ペントハウス』(傑作)の方を推したい。それにしても中盤の娘が歌うくだりやダニエル・クレイグの描き方など、スティーヴン・ソダーバーグは唸るほど映>>続きを読む
チェヴィー・チェイスが足を二回撃たれるだけのどうしようもない風刺喜劇。フリードキンを勝手に神聖化するのは構わないが、こういった駄作も普通に撮っていたことは知っておいたほうがよい(見ておいた方がよい)>>続きを読む
カッコつけて役者だけやっておけばよいのに、わざわざゴミみたいな映画を監督し続けているジェームズ・フランコの真意がなんとなく分かる。「映画」(作品)の質なんてどうでもよくて「表現」(表現者のpassio>>続きを読む
小手先だけの通俗的なドタバタ喜劇は好きになれず、ポルノ女優が自身を演じるメタ的なおふざけも内輪感が強すぎてキツかったが、突き詰めていった絶望の果てに二人が出会うラストが最高。互いに触れることがなかった>>続きを読む
絶対的なマジックミラーが割られることによって、この屋敷での虐げられる者と虐げる者の立場は逆転し、突然の嵐が図式(関係性)を完全に破壊する。シッカリとした「きっかけ」があり(を描き)、その先に展開がある>>続きを読む
頭の足りない怪力男が出てくる映画はそれだけで最高。対等ではなく主従関係で物語が転がり続けるのは正にロージー。
「私」がどれだけ自分勝手でいようが悪意や理不尽な暴力は描かれない、私の物語に「配置」された物わかりが良すぎる大人、ゲイの友達、理解のある「太った」親友、セックス(ブラはつけたまま)よりそばで寄り添う関>>続きを読む
社会から外れても己を曲げず、時代から取り残されても決して媚びずに貫く。家族(という形式)は足枷ではあるが最後の砦でもある。大木に挟まれて腕がちぎれるヘンリー・フォンダ。ポール・ニューマンの目の前で溺れ>>続きを読む
甥への異常な執着やジェーン・バーキンが泣き叫んでいる芝居をぼんやりと見ているうちに、そういえばヴェートーベンって梅毒だったよなあと、無駄に思い出させてくれる珍品。物語に寄り添うことなしに全編にわたって>>続きを読む
「男」として生まれてきた罪を背負うために少女を殺し続ける、犯人(動機)が現代的な病み。異様に背の高い自称弁護士の不穏さが映画を更に歪ませている。ラング版『M』、ロージー版『M』、ドラマ『30年目の真実>>続きを読む
突き詰めると映画とは暴力とセックスしかないわけで、その暴力を核にわざわざ映画を撮るというなら、それならそれでお前(作家)の覚悟を刻むべきだし、どこかで見たような凡庸で通俗的な表現(暴力描写)が一欠けら>>続きを読む
ここまで成熟した作家がほとんど「社会」を描かず(リンクさせず)個と個の問題、その先にある孤独でいまだに映画を完結しているのはさすがにどうかと思うが、ホン・サンスとしては新機軸の「家族」から物語を転がし>>続きを読む
少女愛、ロリータ幻想というより、どうしようもない貧しさ、逃れられない家族(痴呆の母)、満たされない欲望が南部の閉鎖的な地でドロリと溶け合いねじれていく、うんざりするほどいつものテネシー・ウィリアムズ映>>続きを読む
今年最も見たい映画の一本だったが、それほど弾けず。シナリオのマーク・ペレズなら『トラブル・カレッジ』『ハービー/機械じかけのキューピッド』の方が断然楽しめるし、ジョン・フランシス・デイリー映画として見>>続きを読む
緩やかな善悪のドラマかと思って安心していると、映画は次第に暗い影を落とし始める。誰もが報われず、空虚でやり切れない悲しみだけが残るラストこそ『哀しみの街かど』『スケアクロウ』のジェリー・シャッツバーグ>>続きを読む
映画が物語(シナリオ)を超えていない。手慣れた監督なら更にドラマチックに仕上げると思う。それでも俺はアーロン・ソーキンが特別好きなので、どうしても甘くなる。ソーキンはクズをクズとして突き放すが、一握り>>続きを読む
全身いれずみ男が未来を舞台にした三本の短編を語る、SF縛りの『世にも奇妙な物語』って感じでくだらなかった。はぐらかしたような不条理なオチも苦手。偏愛しているジャック・スマイトだけど、これはがっかり。
ロブ・ライナーが撮る喜劇はほんと最高。今のプロフィール画像にもしているぐらいなので当然大好きな映画ですが、アンドレ・ザ・ラブ・ジャイアント(知恵遅れの大男役)がCuteすぎて見るたびに家で飼いたくなる>>続きを読む
シャーロット・ランプリングの年老いた夫役でジム・トンプスンが出演しているのが嬉しい。おそらくスクリーンで動いているトンプスンを見られる唯一の作品。中盤にある娼館のくだりが妙にハッキリしていて好き。【2>>続きを読む
『男の出発』と同じく大人が死に若者が生き残る。カトリーヌ・ドヌーヴの立ち位置が不透明で映画を難しくしている。終盤の大虐殺はそこまでうまくいっていない。ディック・リチャーズはほとんど全部見たが、『ブルー>>続きを読む
ディック・リチャーズはバート・レイノルズと喧嘩して最後まで撮りきれなかったらしいが、リチャーズ映画における負け犬の美学(失敗を受けいれてからの再生)はそれなりに感じ取れる。本作をなぜかリメイクしたジェ>>続きを読む
前にも後ろにも進まない、同じ場所をぐるぐると廻っているだけ、結局はだれも解決できないし「私」の問題は「私」が処理するしかないってのがチャーリー・カウフマンのシナリオ。己と向き合い「私」を掘り続けて自我>>続きを読む
カッコつけたような作家たちがカッコつけたような言葉でヒッチコックを上から語るつまらなさ。菓子折り持ってデ・パルマ呼んでこい。
喜劇としては明らかに失敗しているが(戯曲と勘違いしているつかこうへいが悪いと思う)、井筒の地に足付けた真顔の暴力と志穂美悦子の美しさ(エロス)でなんとか形にはしている。井筒映画での松本竜助。殴り込みの>>続きを読む
現役のサタデー・ナイト・ライブのメンバーがこのような善人しか出てこない愛に溢れた映画を平気で撮ってしまうのも時代なんでしょうか。知恵遅れのまま大人になった狂人が周りに迷惑をかけまくる『俺は飛ばし屋/プ>>続きを読む
所詮、大金持ちの道楽。トム・フォードの前作同様に駄作だが「映画」を飾り付けたり汚したりして遊んでいる程度だから怒りも悲しみも特にない。インテリ成功者のくっだらない苦悩を無教養で貧乏な田舎者の暴力に繋げ>>続きを読む
二人が出会う「場」が主役だとしても、その雰囲気さえも借りもの(どこかで散々見たような)としか思えず、たんに下手くそな作家の薄っぺらな自己陶酔。アントン・イェルチンに+0.5。
こういった、狙いすぎてあざとさしか残らない不細工な会話劇を見るとホン・サンスがどれほど優れて(洗練されて)いるのかが逆にわかる。さも「日常」(リアル)を描いているような顔で近づきながら、つまんない出来>>続きを読む
今さら露悪的な図々しさで押し通せるほど映画は甘くない。「ハネケ的」と言われてしまう凡庸さ。傑作だった『ロブスター』が大好きだったので心底がっかりした。
媚びた映画を撮りながら、媚びきれない傲慢さが映画を半端なものにしている。泣かせるベタな物語に寄せたいのか弱者の立場から表現を貫きたいのか(社会に訴えたいのか)、その視点が前作同様にふらふらとしている。>>続きを読む
0から始まって0で終わる地獄ループ。いまの自分を受け入れられない妻も底辺での生活をそれなりに満喫している夫も改めてやり直そうとしている娘も、誰一人として、その負の日常から抜け出すことはできない。人生は>>続きを読む
つまり優れた作家とは寝取る(犯る)側ではなく、粗暴な労働者に激しく突かれる妻を盗み見ることしかできないその弱さと捻じれたナルシシズムにある。直接的な快楽より間接的で倒錯的な恍惚。性器(世紀)の結合では>>続きを読む
夫は消え、父は死に、兄も死ぬ。不毛な愛情、家族の解体、過去(栄光)と現在(衰退)、引き返せない時間。誰かのために生きていくのか、己を通すのか。中流の「甘え」がいくつもの別れを経験し「孤独」(なるように>>続きを読む