ShotaOkuboさんの映画レビュー・感想・評価 - 6ページ目

ShotaOkubo

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Never Goin' Back ネバー・ゴーイン・バック(2018年製作の映画)

3.8

この映画は、彼女たちだけの世界に閉じていて、その世界にある幸福を卑近なまでに接写している。だから、彼女たちの貧困には焦点が合わない。彼女たちの背後に微かに滲んで見えるのみである。この眼差しが悲劇的な境>>続きを読む

ホワイト・ノイズ(2022年製作の映画)

4.0

これは衝突の映画である。「ウィークエンド」と「未知との遭遇」の衝突があり、タンクローリーと貨物列車の衝突、夫と妻の衝突がある。遡ると「マリッジ・ストーリー」も衝突の映画であったことは記憶に新しい。ここ>>続きを読む

アバター:ウェイ・オブ・ウォーター(2022年製作の映画)

4.0

この映画の白眉は、他でもない、映画と呼吸を合わせてしまう仕掛け「水」である。映画館で映画を見るという行為は、受け手に映画を見る以外の運動に制約を課す。この映画は、受け手が僅かに許された例外としての運動>>続きを読む

MEN 同じ顔の男たち(2022年製作の映画)

3.6

映画の味わい深さは、その隠喩の豊かさと比例する。この映画は、ゴシックホラーの語り口を借りてこそいるが、「有害な男性らしさ」は直接的に表現される。あまりに直接的な表現であるがため、受け手に反復可能な想像>>続きを読む

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)

4.4

これは新海誠の行きて帰りし物語である。日常の世界から非日常の世界へと旅立ち、精神的な成長の末に日常へ帰る物語である。日常を過ごすということは、明日も今日と概ね変わらないと考えることである。そのことを前>>続きを読む

天気の子(2019年製作の映画)

4.0

類型的な物語の枠組みを借りていながらも、この映画には新海誠の紛れもない刻印が打たれている。例えば、それはアニメーションに置き換えられた実存の風景であり、正しくなさを含むセカイ系の物語である。アニメーシ>>続きを読む

君の名は。(2016年製作の映画)

5.0

新海誠のフィルモグラフィーには、彼に固有の刻印が打たれている。彼の映画には、シャーマニズム、アニミズム、フェティシズム、セカイ系から生まれるセンチメンタリズムらが解け合った固有の磁場がある。この映画の>>続きを読む

グリーン・ナイト(2021年製作の映画)

4.0

この映画は言い換えの連続で形作られているが、それが一貫して現代の男性性が原型であることを知った時、受け手は初めて意味連関を獲得する。明らかな言い換えは、ここでは具体的に理解可能なものとして現れる。芸術>>続きを読む

あのこと(2021年製作の映画)

5.0

この映画は、彼女と呼吸を合わすための仕掛けが二つある。一つは、彼女の眼前に広がる光景の中から関心のある領域だけが選び取られて見える1.37 : 1のアスペクト比だ。もう一つは、彼女の視線と重なることに>>続きを読む

ベティ・ブルー/インテグラル 完全版(1992年製作の映画)

3.8

この映画を前にした受け手は、カメラに裸体を差し出した俳優たちの感情を考えずにはいられない。この映画を見る際に生じる感興は、スクリーンに含まれる顕在化しなかった俳優の感情を想像することからも得られる。ス>>続きを読む

私が、生きる肌(2011年製作の映画)

5.0

この映画はペドロ・アルモドバルの「見る、見られる」の映画である。映画における「見る、見られる」の関係は、登場人物同士が結び付こうとする意識の表れであり、最も映画的なモーションの一つである。この映画にお>>続きを読む

ドント・ウォーリー・ダーリン(2022年製作の映画)

4.6

この映画はウーマン・リブの映画である。過去の価値観に形作られた「善き妻」という鋳型に押し込められた女性が元の姿を奪還するまでの物語を追体験することが出来る。この映画の白眉は、明らかな創作が現実の混乱を>>続きを読む

浮草(1959年製作の映画)

5.0

この映画においても小津の説話論的な記号を確認することはできるが、この映画の白眉は亭主と女房とが向かい合う口論の場面にある。小津の映画に雨が降っているという例外が起こっているばかりか、映画にとって不可能>>続きを読む

彼岸花(1958年製作の映画)

5.0

小津の映画、取り分け、この映画においては、見知らぬ人物たちが路地や廊下を行く場面を数多く確認できる。この空間的断片は、直線や色彩といった二次元的な様式美に奉仕しながら、その連なりとして編集されることに>>続きを読む

タンポポ(1985年製作の映画)

5.0

食べ物を見るという行為は、視覚のみを頼りにして、その味を想像して期待することに他ならない。しかし、これが映画とあらば、最終的な食べるという行為は叶わない。それでも、意に反して、食べ物への期待を高めてし>>続きを読む

ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー(2022年製作の映画)

3.6

この映画は、チャドウィック・ボーズマンの不在を前にして、それでも前進することが出来るのかという問いである。巨大な喪失を経験した者が復讐心に駆られることなく、その正しさを振り絞ることによって、落とし前を>>続きを読む

ペイン・アンド・グローリー(2019年製作の映画)

4.0

最も個人的なことが最も独創的である。過去に向けて抱く希望は、何者にも壊せない。必ずしも否定されるべきものではない。そればかりか、この映画においては、時間に限定的な人生にとって、実は不可欠な救いでさえあ>>続きを読む

パラレル・マザーズ(2021年製作の映画)

4.0

この映画作家の特権は、ある物語の進行中に別の物語を衝突させる語り口が許されていることにある。この映画においては、女性たちの連帯と分断の物語にスペイン内戦の物語が衝突する。この衝突は、直線的な物語には殆>>続きを読む

ヒューマン・ボイス(2020年製作の映画)

3.6

この映画は、テクストとモーションの映画である。新時代の小道具がテクストとモーションを分かち難く結び付けている。登場人物に台詞を撒き散らしながら、運動させることを可能にしている。

茲山魚譜 チャサンオボ(2019年製作の映画)

3.6

この映画の美点は、海の生き物を理解し解釈していくための手段を切り拓く海洋生物学を鳥羽口として、人間が人間らしくあるための(人間らしさとは何かという絶え間ない問い直しを含む)知識と思考の集積としての学問>>続きを読む

大学は出たけれど(1929年製作の映画)

-

そこから去る決定的な瞬間の到来を待ちながら、取り止めもない時間が流れる場所としての「二階の部屋」に小津の説話論的な機能が確認できる。

落第はしたけれど(1930年製作の映画)

5.0

この映画から確認できる小津の説話論的な儀式は「視線の等方向性」と「食べること」「二階の部屋」の3つである。カンニングという視線的な葛藤が差し当たっての明暗を分かち、食べ物が内部と外部を行き来することで>>続きを読む

生れてはみたけれど(1932年製作の映画)

5.0

小津にとっては、視線が交わるか否かという瞳と対象物との関係性よりも、それが等方向に伸びてゆくということの方が重要である。事実、この映画が動き出すのは、視線の等方向性が乱れる時である。ある対象物を見てい>>続きを読む

父ありき(1942年製作の映画)

5.0

この映画には小津に固有な告別の号令が2つある。記念写真と極楽である。記念写真は、修学旅行の引率者としての教師を引責辞職に追い遣る。ここに親しい教え子との別れと中学教師の職との別れが二重に準備されている>>続きを読む

戸田家の兄妹(1941年製作の映画)

5.0

この映画は、小津が記念写真を告別の儀式として機能させた初めての映画である。記念写真は、その反転と倒立という現象によって、共同体としての家族を翻す、逆さにする、引き離す儀式である。この儀式と並んで、小津>>続きを読む

アフター・ヤン(2021年製作の映画)

5.0

この映画は小津的な別れから始まる。小津にとって、記念写真というものは、その反転と倒立という現象によって、共同体としての家族を翻す。逆さにする。引き離す儀式なのである。家族の他界によって、世界の見え方が>>続きを読む

コロンバス(2017年製作の映画)

5.0

この映画は小津の後ろ姿(チャコールグレーのスーツと白いバケットハット)から始まる。これは、カメラが動かないとか、愛情の激しい葛藤が描かれないとか、物語に起伏がないとか、舞台が拡がりを示さないとか、そう>>続きを読む

ママと娼婦(1973年製作の映画)

5.0

この映画のヌーヴェル・ヴァーグ的な性格は映像よりも「言葉」に支えられている。映画的環境での引用という仕草は、いくらでも対象を操作しうる恣意的な運動であるかにみえて、じつはいささかも恣意的ではありえない>>続きを読む

ディーバ デジタルリマスター版(1981年製作の映画)

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あらゆる映画は既に撮られている。サスペンス、アクション、スリラー、ロマンス。これはジャンル的な映画が発明され尽くした歴史を前提にした引用と編集の映画である。

お葬式(1984年製作の映画)

3.8

ある体験がカメラ(仮借のない吟味の機械)を媒介して語り直されることによって、受け手は主観的な体験を客観的に解釈し直すことが可能になる。そういったカメラの持つ力によって、厳粛な儀式にある可笑しさを暴いて>>続きを読む

ホーリー・モーターズ(2012年製作の映画)

5.0

これは映画についての映画である。映画を観るということは視覚と聴覚を頼りにして映画と結び付こうとすることであり、スクリーン上に起こる運動を眼差しで以って捉え、愛撫しようと試みることである。この運動を知覚>>続きを読む

ポーラX(1999年製作の映画)

4.2

エスコフィエとビノシュを失ったカラックスは、ギョームの身体を借りて、新しい家族を持とうとして運動する。この映画の運動は、カラックスの満身創痍にある精神が動力になっている。カラックス的とは言い難いカメラ>>続きを読む

2046 4Kレストア版(2004年製作の映画)

3.6

ウォン・カーウァイの映画は必ず運動が感情を喚起する。得てして、運動は「すれ違い」となって現れ、感情は「寄る辺なさ」となって現れる。この映画が明らかなウォン・カーウァイ的な運動と感情を持っていながら、そ>>続きを読む

花様年華 4Kレストア版(2000年製作の映画)

5.0

ウォン・カーウァイに不変な運動(すれ違いを宿命付けられた出会い)があって、この映画が特別なのは、そのカメラと色にある。この映画のカメラは、記憶の中を彷徨う眼である。この映画の色は、哀愁と後悔の色である>>続きを読む

欲望の翼(1990年製作の映画)

4.2

脚のない鳥は立ち止まることができず、飛び続けるしかない。現在地や目的地といった相対的な感覚はおろか、安住の地もない。景色は通り過ぎ、他者とはすれ違う。行くあてもなく飛び続けている鳥には未来がない。夢や>>続きを読む

ポンヌフの恋人(1991年製作の映画)

5.0

カラックスにとって、愛の歓喜は喪失の恐怖を前提として成り立っている。その上で愛と恐怖を映画的な運動へと昇華してみせる。そんなカラックスの試みが最も美しく結実するのが「ポンヌフの恋人」である。この映画の>>続きを読む