JFQ

仮面ライダーBLACK SUNのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

仮面ライダーBLACK SUN(2022年製作のドラマ)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

制作チームの「剛腕」を感じる。
最初に観た時は「ブラック・ライブズ・マター」なり「ブラック・クランズマン」なりの日本版をやろうとしたのかな?と思った。はいはいブラックだけにね、と。

けれど、アメリカで公民権運動があった「あの頃」と、日本の新左翼運動があった「あの頃」は違う。もちろん日本でも、この時期に公害反対運動や、差別(朝鮮人差別、障碍者差別)反対運動が盛り上がった。だが、運動する学生達は「当事者」ではなかった(逆にそこが「新左翼の新しさ」だと言う人もいる)
つまり「黒人=怪人」は成り立つかもしれないが「セクト学生=怪人」は成り立たんのじゃないか?マネしてはみたけれど、、、パターンかと思った。

けれど、制作チームは「剛腕」だった。
さらに時代をさかのぼり「亜細亜主義」とつなげてきた。「亜細亜主義」とは、ざっくり言えば「欧米列強に差別されている我々アジア人は手を取り立ち上がるべきだ!」みたいな思想だ。確かにこれなら「亜細亜人(日本人)=怪人」「欧米人=人間」が成り立つ。だからこそゴルゴムの面々は「左翼セクト」風でありながら「着物に刀(アジア)」なんだろう。

亜細亜主義者は、最初「我々アジア人が手を取り合って欧米の差別に立ち向かう」と言っていた。だが、いつしか「ルーツ的存在である天皇が盟主になりアジアを取り仕切る」という話に、思想をすり替えられてしまった(八紘一宇)。そして、その末に、欧米(連合国)に結局やられてしまい、それ以後は、アメリカに従属するしかなくなった。

つまりBLACKで言えば「差別との闘い」が「創生王を守る戦い」にすりかわり(ビルゲニア=三浦貴大ら)それ故に、創生王を人間(堂浪首相=ルー大柴)に悪用され、従属するしかなくなった。

そして、ここで「日本人=怪人」「米国人=人間」の図式が成立する(*注1)。米国の「ブラック・ライブズ・マター運動」を見ても「可哀そうだけど、うちらとは遠い話だよね?」と思うだけだったが、それが、途端に近くなった。「なに!?怪人=黒人=日本人だったのか!」と。つまり一度、亜細亜主義を接続したことで、対米従属のテーマが導入できるようになった。海の向こうの「BLM」と、海の内側の「対米従属」を串刺しにして見ることができるようになった。そして「怪人とは戦後日本人のことだ!」というテーゼを打ち出せるようになる。「ウチらは米国⇒岸⇒安倍により戦争に行かされる怪人兵器だったのか!?」みたいな。

ならば、この従属状態をどうすればいいのか?ドラマでは信彦(中村倫也)がONE PIECEばりに「俺が創生王になる!」と言い出す(観ててちょっと笑ってしまった)。つまり大いなる力を持ってアメリカを屈服させるという。まさに戦前のアジア主義者から天皇(軍国)主義者への道をそのまま辿る。だが、それは歴史をみても、現在をみても無理筋なルートだ。ゆえに一瞬でビジョンがしぼんでしまう。
ではどうするのか?結局、ダロム(中村梅雀)のように「内心忸怩たる思いを抱えつつも共存=従属する」しかないのか?

しかし、ドラマは別のビジョンを描き出す。「大いなる力に頼るという発想」そのものから脱却するビジョンだ。言ってしまえば「∞にコツコツ積み上げる」みたいな話だ。平凡にも思える。でも、自分的には、渋い男たちの戦いがあっけなく終わってJCが颯爽と現れる展開に、なんというか「風が吹き抜ける」感を覚えた。爽快だった。新しいビジョンに思えた。

いや、確かにそうなのだ。「我々が手を取り合い差別と闘う」まではよかったのに、なぜそこから血で血を洗う展開になってしまうのか?それは「我々とは何か?」にこだわるからなのだと思う。こだわると「ルーツ」を探してしまう。そしてルーツ(根源的な真実)にこだわると「それ(創生王=天皇)」を崇拝(頼って)してしまう。そこに近いことが権力になってしまう。そして、それを手にしようとして争いになってしまう。
だから「我々が手を取り合う」ためにこそ「我々のルーツ(という発想)」から脱さねばならない、と。ドラマでいえば「怪人であり人間でもある」という状態だろう。そういう認識が根付くまで∞に手を打ち続けるべきだ、と。そう思う。フィクションだが論文のようでもあると思った(それにしても、対米従属を脱するには「天皇という発想」を消すべきだ!とは、物凄いことを描くな。)

フィクションの面白さというのは、現実とズレているが故に、普通ならつながりそうにないものをつなげられる所だ。それによって「遠い(つながらない)」と思われていたもの同士の中に潜む「近さ(つながる)」を発見できる所にある。それが十全に発揮できていたと思う。

もちろん、真面目すぎるんじゃないか?もっとフィクションならではの軽薄さによって生み出されるビジョンがあるんじゃないか?差別がテーマならば、無節操な「変身」によってルーツをかく乱するようなビジョンとかさ。…なんてことを思うは思う。けれど、自分としては、この「剛腕(つなぐ力)」を最大限にリスペクトしたいと思う。

(注1*いや、ルー大柴=堂波真一だって日本人だ。厳密には「日本=怪人」「米国=人間」の図式にはなっていない。自分も、そこ=本丸のアメリカが出ない事が不満ではある。けれど「トゥギャザーしようぜ!」なアメリカナイズされた人が演じてるんだから、そこはアリとしてほしい笑)
JFQ

JFQ