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不適切にもほどがある!のJFQのネタバレレビュー・内容・結末

不適切にもほどがある!(2024年製作のドラマ)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

なんというか自分は「演劇系センス超苦手人間」で(笑)。なので、これまでのレビューでも、そういうセンスが漂う作品には嫌味なことをいっぱい書いてきている、、(笑)

いや、あの「繊細目線合戦」とか「伏線回収ゲーム合戦」とか「時系列気持ちいい感じにいじり合戦」とか「うちのセンスええとこ突きまっしゃろ感」とかが、とにかく苦手で(笑)

本作で言えば「私がオバサンって言っていいよってなってからのオバサンでしょ?そこ飛ばさないで」みたいな感じというか(繊細目線合戦)。

ここの場面での人選で八嶋智人とか、彦摩呂とかって「ええとこ突いてまっしゃろ?」的な感じというか。

いや、個々の要素が苦手なわけではない。それよりも、木を見ずして、枝を見ることの繊細さばかりを誇っている感じというか。「社会など”大きなもの”が人々にもたらしているもの」について見ることから背を向けている感じというか。そういうセンスに苦手反応が出るのであった。

そういう人間なので、クドカンという人の作品も「その類の最たるもの」みたいな認識があって。なので、これまで、皆がどれだけ絶賛しようとも意地でも避けてきたところがある(何の意地やねんという話だが笑)。

が、「俺の家の話」をみて「おお」と思うところもあったし、自分も年をとって変な意地が抜けてきたのもあって(笑)、本作を観てみたのだった。

けれど。そんな話から切り出すとネガティブな事ばっかり書くと思われそうなので、先にポジティブなことから書く。

まず、本作のテーマのような「めんどくさい問題」に果敢に切り込んだのは勇敢だったとは思う。やはり「不適切」という打ち出し方をすると「制作陣は何が適切で、何が不適切か分かったうえで作っている」という捉え方をされる。だって、分かってないと「これって適切か否か微妙ですよね?」も含めて、うまく描けないわけだから。

すると、「お前は適切/不適切を分かっているというが、本当なのか!?」みたいな争いに絶対になって。

実際「”中高生の男子×男子=ミソジニーの言い訳”とは何ごとか!?」と批判を食らうこととなった。また、「”自分の娘ならしないことをするのがセクハラだ!”と言うが、自分の娘だからという理由で家庭内暴力や家庭内性加害が放置されてしまうことをどう思うのか!?」などの批判も食らっていた。どれも、ごもっともと思うが。

つまり、こうした問題は「私の方がポリコレ分かってます競争」になりやすいし、そういう人間が出てきやすい。もちろん、指摘・批判自体は重要だ。ただ、どうしてもそういう人間が出てくると、それにウザさを感じてしまう人間も出て来るのであって。

その結果、「ポリコレ分かってます人間」の「引きずり下ろし人間」が出てくることになる。で、ぐちゃぐちゃになると…、、にもかかわらず、果敢に描いたのは勇敢だなと。

そのうえ、説教くさくなりがちなテーマを、終始、得意技の「笑い」と「伏線回収&時系列いじりの妙」で引っぱっていけたのもさすがだとは思った。

そういうのは苦手な自分だけれど、「小学生の作文への他愛ないやりとり」と見せかけてタイムマシンにもっていく伏線回収とか、何気ない感じで阪神淡路大震災を出しといて、本題と結びつけていく伏線回収とか「うまいなあ」と思ったし。

(ちなみに「ミュージカル寒い問題」については「クドカン持ち上げ勢」がそれを言うか!?と思う。君らが持ち上げてきて「選ばれし人」になったから「彼ならアレをやっても許される」になって、アレになったんじゃねえの?と。「意地でもクドカン回避勢」の自分は思う笑。)

それに河合優実ワールドがさく裂したのもとてもよかったと思う。一応言っとくと、自分はfilmarksで最初に書いたレビュー(「由宇子の天秤」のレビューね)で「この人はいい」と書いてたんで。決して、流れに便乗してるわけじゃないんで!そこんとこヨロシク!…と、不良スタイルで言っておく。

さておき。ここから本題。ドラマを観て一番語るべきかなと思ったのが「心がけに回収問題」で。つまりは、ラストの「寛容になりましょう~♪」に集約される問題だ。

もちろん心がけは大切だ。けれど、それだけでは例えば国内上場企業内の女性管理職比率が6.2%程度であることや、政界内の女性比率が9.7%しかいない問題には立ち向かえないのではないか。

「そんなん、女性がなりたくねーっつってんだから」と言うかもしれない。だが、政界内の女性議員比率が低いということは、女性の意思がこの国の国づくりに反映されづらいということになる。そんなことは女性も望んでいないはずだ。いや、そもそも「そんなん女性がなりたくねーっつってんだから」は本当か?女性からしてみれば「だって、そんなこと考えたって、この社会じゃムリゲーじゃん?」と思ってるから、そういう状態になっているのではないのか?

だとすれば「ムリゲー」だと思わせてしまう社会をどうにかするべきで。「心がけ」を超えた社会全体での取り組みが必要になるはずで。

つまり、難しい言い方で言えば「構造的暴力(差別)」の視点が必要になる。が、制作陣からはそれが抜け落ちているようにみえる。


けれど。なぜそうなっているかといえば、制作陣がある「世界観」を持っているからなんだと思う。

彼らは、結局のところ日本は「昭和+デバイス(つるっとしたヤツ&耳から垂らすやつ)」でやっていくしかない、、と捉えて(見切って?)いる。(*注1)

つまり、いろいろあっても日本人の価値観は昭和か、せいぜい平成前期で変わらないのだ、と(だからこそ、主人公親子は、平成初期に震災で命を落とすのだった)。

だからこそ2024年には「コンプラ問題」で日本人は右往左往するのだと。

なぜなら「コンプラ」は、自分たちが目指す理想社会のために導入されたものとは思われていないからで。なんか知らんけど、いろんな事情があってやんなきゃいけないことになったものと思われているからで。

だから、本当は「昭和的価値観」でやりたいのだけれど、破ったら面倒なことになるので「不適切か否か?」に気を配らねばならないのだ、と。

それだからこそ、そうした内なる声を代弁してくれる「刺さる言葉」の持ち主「地獄の小川」が、ドラマでは「コンプラカウンセラー」に据えられるのだと。

それは本作だけの認識ではない。例えば前作「俺の家の話」。ドラマは、能楽一家に生まれたものの、家が嫌でプロレスラーを目指した主人公が、七転八倒の末、結局、能を継ぐことになるまでを描く。

その半生は「平成」の比喩にもなっている。つまり、平成とは七転八倒したが結局、空回りした時代だったと(だからこそ「平成アイドル」の長瀬智也が主人公となる)。
日本は昭和的なものを離脱しようとし、新たな社会像を30年模索したが、結局できなかったと。。その結果、「もう昭和の価値観+デバイスの便利さでいいや!」に着地した、と。ここは、もう動かないのだと。
つまり、デバイスは「バージョンアップ」されるが、社会は「アップデート」できないのだと。「構造」とやらを変えることなどできないのだと。

そうしてドラマのラストを「お茶の間+スマホの中の(生前の)長瀬(昭和+デバイス)」で終えるのだった。

加えて、この認識の元、それを補強する装置として制作陣はたびたび「死者の目から見れば現状だって捨てたもんじゃねえメソッド」を導入する。

それは大まかにはこういうことだ。
確かにこの現実は批判されるべき点も多いかもしれない。けれど、仮に自分が数年後に死ぬとしようと。すると、死後の視点からみれば、こんな日常だって「捨てたもんじゃねえ」だろ?と。なかなかおもしれえじゃんかと。そう見えるだろうと。

そう言って「昭和のお茶の間+デバイスな世界」を肯定してみせる。これが「死者の目から見れば現状だって捨てたもんじゃねえメソッド」だ。

自分は熱心なクドカン視聴者ではないが、例えば、「俺の家の話」もそうだろうし、代表作の「木更津キャッツアイ」もこういう構図になっていたはずだ。

で。本作もそうなっている。主人公は1995年に死ぬと。けれど、そういう目線で1986~2024までの日本を観てみれば「捨てたもんじゃねえ」と。いろんなもんが見れて幸せだったよと。そんな話になっている。


で。その構造をもっと分かりやすくしたのが、本作の「タイムマシン」なんだろうと思う。

つまり、これまで「今の世界から見た日常」と「死後の世界から見た日常」の往復で作ってきた物語を「1986年の日常」と「2024年から見た日常」の往復に応用したと。

そして、この「タイムマシン構造」を取ることによって「寛容」をもたらすこともできるのだと。

どういうことか?

例えば、作中の吉田羊演じる「フェミおばさん社会学者(いや、自分がそう思ってるわけじゃないですよ、、)」がイケ好かないとしよう。けれど、そんな人であっても、例えば、自分が2050年から現在(2024年)にやってきたとする。

すると、2024年は「ずいぶんルーズ」にみえると思う。そしてサカエさんの方にシンパシーがいくんじゃないかと思う。

つまり「タイムマシン的なものの見方ができれば寛容も導ける」と。

実際、ドラマでも、最初は「いけすかねえフェミおばさん」と思っていた小川が、ラストには「おいおい聞いてくれよ!1986年やべえよ…」とスマホで相談しあう仲になっているのだから。

…と、この辺でごちゃごちゃ言ってきたことをまとめよう。
*クドカン+制作陣は、「コンプラ問題」を「心がけ」にまとめすぎてしまっている。
*その裏には「日本は昭和+デバイスで行くしかない」という「世界観」がある。
*加えて、それを「死後からみた現在は捨てたもんじゃねえメソッド」が補強する。
*その事をより分かりやすく応用したのが「タイムマシンメソッド」だ。
*で、「タイムマシンメソッド」を使えば「寛容」が導けるのだと。


…つまり、日本は今後「昭和+デバイス」で行くしかないと。しかし、そこに「タイムマシンメソッド的なもの」を差し込むことで、別の視覚(寛容)をもたらすのが、クリエイターの役割なのだと。この「ふてほど」は、そうした認識に基づいて作られた作品なのだと。

さて。自分がどう思うかは別として、、この認識は「正しい」と思う。こういう認識だからこそ、彼らは「国民的作家」となったんだろうとも思うし、本作も話題になったんだろうと思う。

いや、そう書くと「お前は、それをいいふうに思ってないんだな…」と思うかもしれないし、実際そうかもしれない(笑)、しかし、それでもこの世界観は結構「強力」だと思う。肯定するにせよ、否定するにせよ、これを軸にすべきなんじゃないかと。そんなことを強く思わされる作品だった。

(*注の話)
なぜ「演劇勢」はそんな世界観を持つに至ったか?
それは「小劇場の歴史」にあると思う。68~72年の「政治の季節の失敗」の「焼け跡」から登場した小劇場勢は、それまでの「政治の季節」と結びついた「アングラ劇場」的なものを振り払ってみせねばならなかった。
「小劇場」(第三舞台とか東京乾電池とかなんとか)は政治的なことと結びつけてばっかりの「アングラ劇場」にうんざりした人間たちが始めたものだった。
もちろん、そんな「小劇場的なノリ」にうんざりした人たちが始めたのが「どす黒い笑い」を突き付ける「大人計画」だったんだとは思う。
とはいえ、彼らが「アングラ演劇」を再評価したかといえば、そんなことはなく、それもまた「イジり」の対象だった。
けれど、彼らは、あれも、これも、それも…イジり倒したあげく…変わりに何かみつけたのか?
そのことと「結局、お茶の間+デバイスしかないんじゃね?」は結びついていないか、と。「クドカン意地でも回避勢」のたわごととしては、そんなふうに思っている…。
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