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エルピス—希望、あるいは災い—のJFQのネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

「ヘドが出る現実」、「吐き気がする現実」という言葉があるが、このドラマはそのことを文字通り「嘔吐」から考えている。この着眼点が「うまい」と思うし、「力作」だと思う。
だからこそ、この力いっぱい150キロで投げて、しかも、バッターの手元で奇妙な方向に曲がるボールを、受け手の側がどう撃ち返すのか?が重要になる、と。

さておき、まずはあらすじを追う。
主人公は、アナウンサーの浅川(長澤まさみ)と、若手ディレクターの岸本(眞栄田郷敦)。2人は「ことなかれ主義」を抜いたら何も残らない深夜バラエティ「フライデー・ボンボン」の制作を担当。「なんだかなあ感」を抱えながら生きている。だが、ある日、スタッフの1人がきっかけで「冤罪事件」の存在に突き当たる(足利事件がモチーフになっている)。すると「こんな不条理を許しておくわけにはいかない!」と、(自分たちの過去もあり)2人の中の正義感が発動される。それ以降、彼らは深夜バラエティ担当にも関わらず、事件の真相を追い求め、それを番組内で「報道」しようと突き進んでいく。しかし「事件」は思わぬ所とつながっていた。それは「政界」。具体的には時の副総裁・大門(麻生さんがモチーフになっている)だ。そのため真実を暴こうとする2人の前に、「政界&政界に忖度する報道陣」が立ちはだかることに。そんな大きな壁を前に2人は一体どうするのか?…という筋立てだ。

冒頭にも書いたが、このストーリーを進めるに当たり「嘔吐」というモチーフを選んだことがいいと思う。というのも、主人公は「吐き気がする現実」に出くわすと「本当に吐いてしまう」という設定になっている。

正直、そのまますぎて比喩でも何でもないが、それが別の意味でうまい「比喩」になっている。
というのも、人は、押さえていたものが押さえきれなくなると吐いてしまうが、同時に、吐くと「スッキリ」してしまう。
例えば、今、twitter上では毎日のように「#●●に抗議します」という正義の言葉がつぶやかれる。けれど、多くの場合はそこから「先に続かない」。正義の言葉を吐くことで「スッキリ」してしまうからだろう。
もちろん、そのことをバカにするつもりはない。ドラマの#1で歌われていた歌のように「吐き気のする現実」に対しては「僕は嫌だ!」と言うべきだ(だからこそ自分もそう叫んだ人の絵をアイコンにしている)。
ただ。実際には「そこで終わってしまう」ことが多い。けれど、本当に問うべきは「もよおさせるもの」は何なのか?もしくは「吐くな」と体を押さえつけてくるものは何なのか?それが突き止められないことには「吐き気」は治癒しない。

では「吐き気をもよおさせるもの」は何だと言っているのか?
ドラマは「村の道徳(立場保護)」だと言っている。別のレビューで書いた言葉で補足すると、「真実を明らかにしよう=正義」/「真実を明らかにすると困る人が出ることを考えよう=道徳」の「道徳」だ。
実際、ドラマでは「そんなことをしたらどうなるか分かっているのか?」「どれだけの人が迷惑すると思っているのか?」と、局内の多くの人達が口にするし、報道したことで、登場人物が子会社に飛ばされたり、重要目撃者が逃亡し弁護士が怒り狂ったりするなど、迷惑なことも起きている。
けれど、「そんなことをしたらどうなるか分かっているのか?」と脅す人たちだって「具体的に」どうなるか?分かっているわけではない。
ドラマでも「こんな深夜のおちゃらけ番組で冤罪事件を報道するだと?」「そんなことをしてどうなるか分かってるのか?」と言われるが、いざ(テロリズム的に)放送してみると高視聴率で局長も大喜びみたいな展開になる。

だからこそ最終話で主人公は、こう問いを立て直す(のだと思う)。
この人たちは、なぜこんなにも「そんなことをしたらどうなるか分かっているのか?」とビビるのか?と。
そして「それは目の前の人を信頼できないからだ」という答えに行く。
そう、多くの人は「そんなことをしたら組織がふっとぶぞ」という。だが、よくよく考えれば「なんとかなる」。ふっとんだなら別の組織を作ればいいじゃないか?

そうなら(れ)ないのは「目の前の人を信頼していない」からだ。今、私の座っている席が奪われたなら、そんな自分など誰が受け入れてくれようか?と。そんなふうに考えてしまうからだと。
だとすれば「そんな事をしたらどうなると思ってんだ!」と問い詰めて来る人たちが問題というよりも、「そんなこと」が起きたら、どうしようもなくなってしまうと「考えさせる社会」の方に問題があるのではないか?

なるほど、ここまでは「美しい論文」のような展開になっている。
だとすれば、「ならば、目の前の人を信頼できるようになるにはどうすればいいのか?」。これが次の問いになるはずだ。

しかし、ドラマはラストにきて予想もしない方向にカーブする。いや、そもそもこれはカーブなのか?シュートなのか?フォークなのか?なんと名付けていいかわからない曲がり方になる。

どんな方に曲がったのか?
番組の最終話、浅川は「副総裁の秘書自殺」の裏に「副総裁親族のレイプもみ消し事件」があることを突き止める(秘書はその秘密を告白したため自殺を偽装し殺害された)。そして、その事をトップニュースとして報道しようと決意する。しかし、それを食い止めようとして、元恋人であり現副総の「側近的存在」であるフリージャーナリストの斎藤(鈴木亮平)が乗り込んでくる。そして、理屈をこねて説得にかかる。
すると、それまでの勢いとは裏腹に、浅川は斎藤の提案を飲んで「もみ消し事件」の報道を取りやめる。そして「取引」として「冤罪事件の真犯人=副総理の息子(永山瑛太)」の報道を”副総理の息子だと言わないことを条件に”許可させる。
こうして2人は握手を交わし「副総理スキャンダル」は闇に葬られる。当然、観ているこっちは「肩透かし」を食らうわけだが、そこに追い打ちをかけるように主人公は、だいたいこんなことを言う。「世の中には善玉も悪玉もないんだ」「だからこれからは正義よりも夢をみよう」と。

「一体、自分はどこに連れていかれたのか…?」という気持ちになる。
もちろん、それが制作チームのねらいなのだろうし、その意味では「目論見通り」ということだろう。
けれど、わかったようなわからんような気持ちになったことも事実だ。

結局は、大きなものに屈してしまい、それをどうにか言いくるめるため「ポエム」に走ってしまったということか?
それとも、この「夢」こそが「目の前の人を信頼できるようになるにはどうすればいいのか?」の答えだということか?

そこで、少し知恵熱を出して考えてみるなら、まず、浅川の選択は”スッキリするかどうか”は別として理にはかなっている。
実際、この報道により冤罪は晴れ、犯人を疑われた松本(片岡正二郎)は塀の内側から戻ってくることができた。逆に「副総理スキャンダル」を報道していれば「報復」として松本は死刑にされていただろう。
もちろん、この選択により「副総理スキャンダル」はどうなるんだ?冤罪事件だって犯人(息子)と副総理(父)の関係が闇に葬られたじゃないか?という問題は残る。

こういう「ツッコミ」についてドラマが言いたいことはこうだろう。
確かに問題は残る。けれど、それは齋藤のような人間が「政界の現場」から1つ1つ解決していってくれる。少なくともそういう「可能性」は保持できた。

あとは自分が齋藤のような人間を信頼し、その齋藤が仲間を信頼し、その仲間が…とつながって行くことで、「政界の闇」はアップデートされていくはずだ。

そうした「夢」があれば、目の前の人を信じることができるようになるんじゃないか?

大事なことは、信頼する人にカレーを振る舞えるような世の中になることであって。信頼する人たちと大盛牛丼を食える世の中になる事であって。
そういう場所すら作れないのに、一足飛びに「正義」等実現できるのか?
つまりは、こういう「スッキリはしない道」を歩いて行くことこそが「(正義の言葉を)吐いてスッキリ⇒忘却」を回避して、「正義」にたどり着く「(遠回りに見えて)近道」なのだ。

だからこそ、このドラマは「スッキリ」終わらせるべきではない、と。

いや、自分自身は、そんなふうに「時間をかけてコツコツ」とか言いながら結局は「時間の穴吊り(※注1)」に負け続けてきたから「もうテロしかない!」みたいに思う人が増えているんじゃないの?と思ってはいる。
ただ、だからといって「一発逆転の(正義)テロ」に希望があるとも思わない。

が、そういう中で、ドラマはこう言って来た。
「いや、もう、パンドラの箱を開けるか否かじゃなくて、すでに開いているし、中からは希望が飛び出ている。そう考えて生きてみようじゃないか?そうすれば、人は、目の前の人を信頼するに決まっている。なにしろ世界にはすでに希望が飛び出しているのだから!(そう考えて生きているのだから)」と。

けれど、この「夢」は、希望なのか、それとも希望という名の「詐欺(厄災)」なのか?今の自分には、まだ結論が出せずにいる。

(注1:「穴吊り」とは、江戸時代にキリスト教弾圧のために用いられた拷問方法です。汚物の入った穴の中に逆さに吊るすというものでしたが、こめかみに穴をあけて頭に血が溜まらないようにしており、長時間苦しみが続く過酷な拷問であったようです。つまりは、権力&時間により、気力や意思を削がれていく事の比喩として書いておるのであります、、)
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