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ガンニバルのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

ガンニバル(2022年製作のドラマ)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

柳楽優弥くんの目が終始、殺気立っていていい!
けれど柳楽駐在の「振り切ってる感」とは裏腹に、ドラマから浮かび上がるのは「社会の振り切れなさ」というか「変え切れなさ」の方だった。

ストーリー自体は漫画原作だけあって、まさに「人を食った」「マンガのよう」ではある。

主人公は警察官の一家(柳楽、吉岡里帆、志水心音)。3人は岡山県のとある村に赴任。「村の駐在さん」となる。だが、そこには「あの人」と呼ばれる「長老」を中心とする一族がおり、その「長老」は生きながらえるため人を喰っているらしいことが見えて来る。
どうやら、村で子供が生まれると産婆役(倍賞美津子)の老女が「子供は死んでしまった」と言い、母親に見せる前に連れ去ってしまう。それを「あの人」に食わせているようなのだ。
駐在一家には、かつて我が子を「変質者」に狙われた過去がある。そのため「子供が殺められている」と思うといてもたってもいられなくなる。だが、事実を突き止めようとする駐在の前に、若当主(笠松将)を始めとする「一族」が立ちはだかる。はたして「一族の真実」を白日の下にさらすことはできるのか!?…という筋立てになっている。

ただ、さっき「マンガのようだ」とは書いたが、今は現実自体が「マンガのよう」になっている。

例えば、今「子供を産みたいか?」と未婚者や若夫婦にアンケートを取れば6~7割が「産みたい」と答える。にもかかわらず、この社会では「異次元の少子化対策」が必要なのだと言う。

だったら「本当は生まれるはずの子供」が「何者か」によって奪われているのと変わらないんじゃないか?この「マンガのような話」と何が違うのかと思わずにはいられない。

また、昨今は「伝統的家族が大事!」「LGBTなんて近所にいたら気持ち悪い!」などという「前近代的な価値観」を振りかざす「カルト」と与党が結託し「夫婦別姓」を始めとする多様な家族のあり方を阻むため、少子化が加速するのだ!なんていう主張もよく目にする。

この「おどろおどろしい状況」というか「陰謀論めいた状況」も、本作と通じるところがある(だだ、こういう見方が行き過ぎてしまうと、ドラマの冒頭に出て来る前駐在のように「俺は分かってるんだぞー!」と、目を血走らせて錯乱したようになってしまうのかもしれないが…。)

そう考えるなら、本作は「山に囲まれた小さな村の話」というよりも「日本という村の話」だと捉えるべきなんだろう。

さておき。ドラマで描かれる「村」は「マンガじみていて」「おどろおどろしく」「前近代的」である。ならば、そんなものは変えてしまえばいいと思うが、ドラマはむしろ「変え切れなさ」を描き出す。

その「変え切れなさ」を支える「核」になっているのは、ドラマの宴会シーンで描かれるような感覚なんだと思う。そこでは、若当主の当主就任に気をよくして調子にのった一族の1人が、走り回りながらこう口走る。

「この宴会の列のように、後藤家も、ずずずいーーーっと続いていくんやなああ」

この「ずずずいーーーっ」という感覚。昨日と変わらず今日を生き延び、今日と変わらず、明日を生き延びる。これがずっと続いていく。その「ずっと変わらず生き延びられる世界」の中に自分も包まれている。そんな感覚。

そして、そんな世界が続いていく事の「象徴」となっているのが「あの人」なんだろう。つまり、「あの人」が昨日と変わらず今日を生き延び、今日と変わらず明日を生き延びることで、自分たちも「昨日と変わらぬ今日」を送ることができるのだ、と。

一見すれば、それは「呪いじゃて」と言う若神主の言葉のように「根拠のない」感覚に思える。実際にも「あの人」が生き延びるために村の子供たちを喰っていけば「ずずずいーーっ」どころか、村が存続不能になってしまうのだから。

けれど、現実の社会でもこれと似たことを行っている。なにしろ、今この国では「異次元の少子化対策が必要だ」と言いながら、それを後回しにして「国を守るための防衛費を増やそう」としているのだから。国民の多くもこれに賛同している。

この感覚を支えているのは何か?「この国が昨日と変わらず今日を生き延び、今日と変わらず明日を生き延びることで、我々も昨日と変わらぬ今日を送ることができる」なんじゃないのか?だったら、こうした感覚を「それは呪いじゃて」と一蹴できるだろうか?

いや、現実との対比よりも重要なことがある。それは、一族に対抗している主人公ですらも、根源的には彼らの感覚と「同じ根」を持っているように見えることだ。

先にも書いたが、主人公は我が子を「変質者」に襲われている。柳楽警官はかつて「錯乱」した「変質者」を銃殺しており、それがある種の「トラウマ」となっている。

なぜ「トラウマ」なのかといえば「変質者」と娘が「仲良し」だったからだ。「変質者」は、知的なのか精神的なのかに未発達な部分を抱えてはいるものの、粗暴だったり幼児趣味のある人間ではなかった。
にもかかわらず、柳楽警官は、娘と彼が接近したことにある種の恐怖を覚え、結局、銃殺してしまうことになる。その体験が「トラウマ」を呼び込んでいる。

この「(過剰な?)恐怖」と「一族がずずずいーっと続いてほしい」という感覚は通底しているんじゃないか?実際、当人たちがどう思っていようと「自分の一族」を守るために「その他の人」を殺めているわけだから。

とすれば、どれだけ「AとBが対抗的な関係」にあろうとも、両者が「同じ根」を持っているのだから「AをBに変える(BをAに変える)」ことは難しい。

だから、たとえ「呪いのようなしきたり」だろうと、主人公は根源的には「撃ちきれない」のではないか?。ドラマを観ているとそんな感覚を覚える。「社会の変え切れなさ」で言いたかったのは、こういう事だ。

自分は、この監督の前作「さがす」のレビューでこう書いた。

”リアルに人間を「解像」した末に「世界がマンガ的であること」を突き止めた人間だけが描ける映像がここにある”

それをもじって言うなら、本作は「”マンガの力”を駆使して、世界をリアルに”解像”した」ということになるだろうか。

ドラマはまだまだ続くし、先が観たいが、とりあず現時点で思ったのはそういうことかなあと。
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