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サンクチュアリ -聖域-のJFQのネタバレレビュー・内容・結末

サンクチュアリ -聖域-(2023年製作のドラマ)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

「よくできている」。だからこそ考えさせられた。
まず、テーマ選びが「戦略的」で「よくできている」。
つまり、近年、日本にも米国由来の「ポリコレの風」が吹いてきたと。それに対して「分かるは分かる(理解)」と「うんざり感(拒否反応)」が渦巻いている状況だと。ならば、そこにグローバルスタンダードとは真逆の「古いしきたり」に満ちた世界をぶつけてみようと。で、「全部グローバルスタンダードで押し通すのがいいか考えてくれ!」と。そんな打ち出しをすれば、「メッセージ性がある感じになる」と。「よくできている」と思う(時を同じくして起きた「ジャニーズ問題」ともシンクロしており、それも本作を視聴する「追い風」になったと思う)。

いや、そういう意地悪な見方は置いといて(笑)。素朴によく作れたなあと思う。
そもそも、力士のような体格で、かつ演技もできる人をそろえるのが大変だと思うし。それに文字では「激しい立ち合い」とかいくらでも書けるが、それを映像上、ショボくならないように撮るのは大変だと思うし。なので「よくできたなあ」と。

また、日本のマンガ/アニメで蓄積されてきた、キャラづくりや、ストーリーテリングも詰まっている。この観点でも「よくできている」。
正直言って「田舎のヤンキー」にせよ、「寿司屋がつぶれてアバズレ化する母」にせよ、「顔にあざのある巨漢」にせよ、全員、極端すぎる。「マンガかよ(笑)」と思ってしまう。けれど、こういう方がワクワクするんだろうし。日本のマンガ/アニメが世界に届いているのもこういう部分なんだろうし。「マンガ原作ではないマンガのようなドラマ」を狙ったとしたら「よくできている」と。

ただ。それはそれで素直に「よくできている」と思う一方で、考えさせるところもあって。それは、この映画の「主役」である「サンクチュアリ(聖域)」についてで。

パッと見た感じ、ドラマは、鎌倉のヤンキーがある時バスケに目覚め全国制覇を目指す「スラダン」の「相撲版」にみえる。つまり主役は、桜木花道=猿桜(一ノ瀬ワタル)にみえる。

けれど、タイトルが示すように、この作品の主役は「サンクチュアリ(相撲界)」であって。その観点でみれば、このドラマは、サンクチュアリという主役が、「しきたりなんか知ったこっちゃねえ」田舎のヤンキーや、「ポリコレの波を浴びまくった」帰国子女記者など、「異物たち」を自分の中に次々と飲み込んでいく「怪獣物語」なんだろう、と。

なぜ、こういう事を書くかといえばストーリーをみて少し奇妙に思ったからで。
通常、こういうドラマだと、型破りな主人公(猿桜)が、常識破りな発想や行動を武器に、旧態依然とした世界を変えていく…みたいな展開になりそうなものだ。
また、ありがちな展開だと、主人公には「個性的な得意技」なんかがあり、それは「業界の常識」には反するが、「強い」と。

けれど、本作はそうなっていない。

主人公(猿桜)の相撲は最初は型破りにみえるものの、最終的には「低い姿勢で当たる」など「王道」というか「地味」な展開になっていく。常識破りにみえた奴が結局のところは、相撲界の常道を受け入れ「相撲のうまい力士」になっていく(少なくともシーズン1は)
帰国子女(忽那汐里)も、親方(ピエール瀧)も、主人公(猿桜)の「型破りさ」に「沸き立って」いたはずだ。しかし、ドラマは別の方向に進んでしまったかにみえる。

「サンクチュアリが主人公(猿桜)達を飲み込んだ」とはそういう事だ。
なぜ、こうなったのか?おそらく制作チームが「型破りな主人公の業界革命ストーリー」に「リアリティ」を感じなかったからだろう。「今、そんなことを描いても視聴者はシラけちゃうんじゃないか?」と。
で、その感覚は「正解」なんだろうと思う。今の日本は、今ある世界に適応するので精一杯で。新たな改革ビジョンだとか、新たなイノベーションだとかは「絵空事」というか「実現できる気がしない」と。
「イキってねえで、目の前の仕事をちゃんとやれ!」と。
そういうマインドにあると踏んだからこういうストーリー展開になったんだろうと。自分としては悲しい気もするが、、それが「今の日本」なんだと思う。

さておき。こうしてサンクチュアリに主人公たちは飲み込まれた。
しかし、そのことをどう考えるか?というのも「サンクチュアリ(相撲界)」には「魅力」もあるが「ブラックな部分」もあるからで。

このドラマで描かれる「相撲界」は、たしかに「魅力的」ではある。
けれど同時に、女人禁制で、稽古はパワハラ的で、科学的トレーニングにも基いておらず、八百長(星の貸し借り)も横行していると。グローバルスタンダードからみれば「ブラックそのもの」だと。そこに飲み込まれることでOKなんですか?と。そういう問題が発生する。

これは、言うなれば「真善美の不一致問題」だ。
つまり、「真実で、善くて、美しい」ならば誰も文句は言わない。けれど「善くはないが、美しい」とか「善いけど、美しくない」場合、人々の立場によって評価が変わって来る。
「善い」に力点を置く人は、「善くないんだから消えちまえ!」と言うし、「美しい」に力点を置く人は、「美しさを守れ!」と言う。同じものをみていても評価がまるで変ってしまう(例:「ジャニーさんを擁護する山下達郎問題」)。

この場合、オーソドックスに考えれば「善くない部分を変えればいい」。そうすれば「善くて美しい」が実現できるはずだと。普通はそれでいい。

けれど、ややこしい場合がある。「善くない部分が美しさを支えている場合」だ。この場合、善くない部分を変えると美しさも消えてしまう。

例えば、ドラマでは帰国子女記者が「四股なんて非科学的なんだから科学的なウェイトトレーニングに変えればいい」という。
一見するとそんな気もする。自分も学生のころは「部活中に水を飲むな」とか言われたもんで。しかし「科学的な根拠はない」と後から知って。「あれは何だったんだよ!」と思ったもので。。それと似たようなもんじゃないかと。

けれど同時にこうも思う。四股で稽古しなくなった「相撲」は、我々が知っている「相撲」と同じなのか?と。何かが変わってしまうんじゃないか?と。

また「八百長問題」だって、そうも言えて。
例えば「ヤバい経済学」という本には「7勝7負の力士は、勝つ確率が異様に高まる」「これは8勝7負で終わるのと、7勝8負で終わるのは力士の評価が大きく変わるため”星のやり取りが行わる”のだろう」みたいな事が書いてある。
もしそうなら「そんなのやめちまえ!」と普通は思う。
ただ、このように「持ちつ持たれつ」でやる事が「勝てばいいんだよ!」というギスギスした感じを生まない「美しさ」にもつながっている…のだとしたら。

もちろん、自分は門外漢なので本当のところは分からない。ただ「不善が美を支えている」ということは理屈的にはあると思っている。
この場合、どう考えればいいのか?正直、自分にもわからない。。
だからこそ、展開する精細な映像や、スーパースローに引き込まれながらも、一度、立ち止まってみる必要があると思った。
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