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エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスのaiaiのレビュー・感想・評価

1.0
もうひとつの地球のアカデミー賞?
〜元ラジー賞会員が吟味するラジー賞vol2〜

ご存知ラジー賞(ゴールデンラズベリー賞)は、アカデミー賞の前に発表される、イケてない作品とか役者に与えられる不名誉な賞。

アカデミーで主演女優賞を受賞した女優が、最低主演女優賞を受賞するなど、忖度なしの投票結果が話題にのぼることも。

ラジーは多少の会費払うと誰でも会員になれるし、会員になると投票券をもらえ、会員なら誰でも投票できるといった開かれたシステム。かく言う自分もラジーの会員だった頃がありました。

さて、本作エブエブ、見事、今年のラジー賞を総なめし・・・え??・・・ラジー賞じゃない!?

え?何の賞なんですか?

あ。アカデミー賞!!??

えええ~???

もしかしてマルチバースに存在するもうひとつの地球のアカデミー賞ですか??

‐バース整理

ここで、本作の設定について前提となるメタバース、マルチバースの概念を整理したい。

<マルチバース:平行宇宙>
公転する太陽の向こう側に実はもうひとつの地球があるという古典SF。ただし、2つの地球の生活様式は異なり、見た目同じでも人物のキャラはまったく違う。

これをふえんして、自分が今いる宇宙とは別の、もうひとつの宇宙がどこか別の次元に存在するという概念。その宇宙にもここと同じような惑星があり、同じような生命体がいる。

これを平行宇宙、パラレルワールドという。

何かの拍子で、この平行宇宙同士が相互接続してしまうことで事件が勃発する。

昔ハマったドラマだと「フリンジ」、わりと最近では「スター・トレック:ディスカバリー」

ちなみにこのディスカバリーには、本作で主演女優賞を獲ったミシェル・ヨーが出演しており、平行宇宙に存在する瓜二つだがキャラがまったく異なる2人の主要人物を演じている(エブエブよりこちらが先なのだ)

<メタバース:仮想空間>
まず現実がちゃんとあって、その現実とは別の世界、電脳世界、夢世界、ゲームのようなバーチャルな仮想空間がある。現実とその仮想空間を自由自在に行ったり来たりできる。

これをメタバースという。

行った先の世界はバーチャルなのでやりたいほうだい、壊しほうだいなのだが、現実側の生身の身体とリンクしているため、向こうであまり無茶すると、こちらの身体に影響がでたり、戻ってこれなくなったりする。

「マトリックス」「インセプション」最近のドラマでは「ペリフェラル」なんかもそうかと。

<メタバース風マルチバース:本作エブエブ>
例えば、ある時、普段は左に曲がる道を、気分を変えて右へ曲がったとする。
そこへたまたま走ってきた、ボンジュールが口癖の書店員さんと鉢合わせになり、その人が両手で抱えてた本が道路に散らばることに。
ごめんなさい!すみません!と互いに頭を下げながら本を拾う2人。
その後2人は好きな本の話で意気投合しお付き合いすることに。
数年後、港の本屋が見える教会でゴールイン・・・

このケースでは、右へ曲がったことが文字通り運命の分かれ道となったのだが、仮にあの時右へ曲がらず、普段どおり左へ曲がっていたとしたらどういう未来が待ち受けていたか?
もしかしたら、左へ曲がるとメルシーが口癖の八百屋さんと鉢合わせになってたかもしれない未来。あくまでそれはもしもの話。

がしかし、左へ曲がったときに広がるその未来が実は存在しているとしたら?

時間軸上の無数のIF(もしも)による、IF毎に枝分かれした世界がIFの数だけ存在する世界。かつ同時に存在するためには、同じ次元には存在できないため多次元となる。

平行宇宙が多層化したマルチバース。

理屈上、自分自身も無数に存在することになる。
現実の自分を基点とし、それら無数の自分をメタバースとして、自由自在に自分自身に往来できる世界。

これが本作エブエブのメタバース風マルチバース(というのが個人認識)

※ちなみに「ロキ」というドラマでは、いろんなマルチバースの自分(爬虫類になってる自分もいる)が一同にかいして敵をやっつける。

‐ガチャガチャした映像のオンパレードだが中身は比較的空洞

主人公のエヴリンは、今の夫と一緒にならなかったら、もしかしたら事故で盲目の歌手となっていたかもしれないし、カンフーの達人に弟子入りしそのままカンフースターになっていたかもしれないし、コックになっていたかもしれないし、エイリアン風になっていたかもしれないし、岩になっていたかもしれないし(そんな可能性ある?)、そういったいろんな、もしかしたらそうなっていたかもしれないというマルチバースにいるという設定。

マルチバースにいる自分に自在に往来できるのと、それぞれの自分のスキルを現実の自分のスキルにアドオンできる。

メタバースを映像表現しようと高速フラッシュバックみたいな連続のなかで、やってることはアクションコント。

世界がいくら複雑だとしても、愛はマルチバースを救うとでもいいたいのだろうか🥴

日本で普通にダニエルズと検索するとお笑い芸人のダニエルズが出てくるが、あちらの評論家のレビューみてると、本作の共同脚本、ダニエル・クワンとダニエル・シャイナートの2人の通称、ダニエルズが頻繁に出てくる。
若手の脚本家の旗手といったていで、基本べた褒め。
でもこれ、そこまで絶賛する脚本か?
本作からカンフーアクションとマルチバース取り除いたら、比較的チープな母娘愛が残る程度じゃない?

‐”バズりそう”、かつ、”白過ぎない”は最良の投票モチベーション

アカデミー賞は業界人で構成されるアカデミー会員らによる投票で決まる。
いわば、同業者の同業者による同業者のための賞。
業界全体が潤えば、映画人の仕事も増える、まわりまわってアカデミー会員自らの利益につながるという、強烈なエンタメロジックがはたらく世界。

となればもう、美人投票。

ここでいう美人投票とは金融用語で、それ本来の業績の良し悪しに限らず、みんなが良いと思うものに投資することを例える言葉。
作品の良し悪しは二の次で人気のある作品に票を入れる。

前哨戦的に先行する他の映画賞を出口調査として参考とし、評論家筋が話題に上げる勢いのある作品に乗っかって投票したほうが楽だし、手っ取り早い。
結局、バズったほうが業界にとっても会員にとっても都合がいいのだ。

しかし一方で踏み絵もある。

かつて「白すぎるオスカー」という、アカデミーノミネートが白人のみだったことに起因する2015年あたりの批判ムーブメントがあり、それをきっかけにアカデミーは構成員の人種比率を見直すようになった(それまでは白人の爺さん層が会員のマジョリティだった)

とはいえ、「白すぎるオスカー」はいまだ会員の踏み絵となっていて、その匕首(あいくち)を常に喉元につきつけられたかのような錯覚をおぼえているのか、会員のなかにある種の”エクスキューズ(弁明)”が根付いているようにもみえる(あくまで個人見解です)

今や、”バズりそう”、かつ、”白過ぎない”は、アカデミー賞に留まらず、映画会全体のエクスキューズを満たした最良の投票モチベーションとなっている(と思う)

‐マルチバースな気分

オスカータイトル保持者になればギャラも上がるだろうし、キャリアにハクもつく。仕事も増える。
受賞した役者には素直におめでとうと言いたい。

ただ・・・
主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞を獲りました!
「凄いですね~どんな点に苦労されたんですか?」とインタビュー受けるたびに、
「岩の演技できます?石の上にも三年っていうじゃないですか」
「ポシェットをヌンチャク代わりにするのって、ハリソンの機嫌とるより大変なんだよ」
「びよ~んとした指でペチペチするのって、シュワちゃんの前でポールダンスするより難しいのよね」
「・・・そ、それって何のコント番組なんですか?」

エブエブが最高峰の映画と讃えられる世界と、黒歴史として扱われる世界。
そんなマルチバースが存在しているとしたら、自分は前者の世界にいるのだろうな🤔

‐個人的マルチバース疑似体験

自分が学生時代の頃、ある双子の兄のほうとクラスが一緒で、卒業し次の学校に入ったら今度は弟のほうと一緒のクラスになったことがあります。
2人とも見た目同じですが、性格は真逆。
兄はいやみったらしい奴だったのですが、弟はいい奴で友人になれました。
今思えば、あれが自分にとっての初マルチバース体験でしたね、ハハハ🤣
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