[向き合うべきもの]
※「ここからネタバレ」と書いてあるところからネタバレありで書いてます。未鑑賞の方はご注意ください。
「君の名は」「天気の子」そして今作と3本見た中で、最も涙が溢れて止まらない作品だった。
そして、最も心に響かない作品だった。
主人公が最終的に向き合ったもの。
あれが物語としてあまりに弱いものとなっていたように思うからだ。
もちろん個人的な感想ではあるが、しかしこのラスト(帰着点)の傾向は日本の作品には多く見られる傾向であり、それがうまく機能する時といかない時があるなあ、と思っている。
それを書いてみたい。
「主人公が、本当に向き合うべきものとは何だったのか?」
------ここからネタバレ---------
主人公が、最後の最後に向き合ったもの
それは「過去の自分」だった。
そこで主人公は母が作ってくれた椅子を差し出し「未来は光が溢れているから」と過去の自分を送り出す。
もちろんわかる。
誰しもが大きな苦しみの際に向き合うべきは、やはり自分自身であり、それが過去の苦しみと向き合うと言う事に繋がるだろう。
だが、それだけで本当に現実と向き合い「今」に対しての扉を開ける事に繋がっていると言えるだろうか?
3.11の震災
あまりに大きな出来事で、ここでそれについてあまり多くは書くことはできない。
だが、あの震災から「今」を生きる方々はきっと同じように苦しみ「共に生きてきた人」と向き合って生きてきたのだと思う。
私がこの映画で最も感動して涙が溢れたのは、主人公の叔母が自分の苦しみを吐露し衝突するシーンだ。
主人公が母を無くすと同時に、叔母もまた人生の一部が塗り替えられたのだ。
主人公が、本当に向き合わなければいけなかったのは、その叔母である。
叔母との生活こそが「今」であり、主人公が帰るべき、そして向き合うべき「今」だからだ。
椅子との旅路よりもっともっと叔母とのドラマに時間を費やしてほしかった。
母の損失の苦しみをしっかり叔母にぶつけ、叔母の苦しみも主人公にぶつけ、それで二人で「今」を見つめなおす物語にしてほしかった。
この物語は彼女の戸締まりをする瞬間で終わっているが、あそこで叔母からの「おかえりなさい」で閉じるべきであったと思う。
日本のアニメ、漫画は昔からどうしても物語の最終局面で自分自身と向きあう演出傾向が多いように感じる。おそらくは作家やクリエイターは悶々と一人で作業をしている事が多いからこそ、自分と向き合ってしまい、それが物語にも反映されてしまってるから、という見方もできる。
しかし、クリエイターも物語も、真に衝突し向き合うべきは「今、目の前にいる人」ではないだろうか?
私は、大きな問題や苦しみは、自分だけで戸締まるのではなく、近い人、親しい人と一緒に考えて生きていく事が重要だと思っている
扉は「閉じる」ためだけではなく
誰かに会うために「開ける」事もできるのだから