黒澤明の「生きる」をノーベル文学賞作家のカズオ•イシグロが脚本を担当し、舞台を第二次大戦後のイギリスに翻案した本作。
主人公はビル•ナイが演じるウィリアムズ。スーツに山高帽とイギリス紳士然とした格好で顔の表情ひとつ動かさず、鉄道で同僚とロンドンまで出勤する。
と言っても、ウィリアムズは同僚とは別の車両だ。他の職員はそれなりに和気藹々と同じコンパートメントで話を弾ませ出勤時間を過ごすが、そこにウィリアムズの姿はない。
ずいぶん前に妻を亡くしてからは同じ日々を判をつくように繰り返すだけの人生を送るウィリアムズ。
役所では書類仕事をなんの情熱もなくさばき、部下や同僚には少し距離を置かれ、息子夫婦ともあまりうまくいってない。
そんなある日、癌で余命半年と医師から宣告される。青天の霹靂だ。
あれほど仕事人間だったのに無断で仕事を休み、海辺のリゾート地に向かって酒を飲んだりなんだりしてハメを外そうとするものの、残りの余命をどうしてよいのかわからない。
結局、街に戻るが、部下のマーガレットと行き交う。他の職場に転職しようとしていたマーガレットは推薦書を書いて欲しかったのでちょうどよかった、と言う。
ウィリアムズは待たせてしまった埋め合わせにとフォートナム&メイソンでお茶をすることになる。
あのフォートナム&メイソンでお茶をすることになってはしゃぐマーガレット。デザートも頼んでいいと言われ一層はしゃぐ。(私だってはしゃぐと思う。そのくらい、この時代のフォートナム&メイソンの雰囲気は素敵だ。)
そこで、マーガレットは職場のみんなにこっそりあだ名をつけているの、と打ち明ける。
そして、ウィリアムズは自分が「ミスター•ゾンビ」と名付けられていることを知る。
ようやく少しウィリアムズの表情がほぐれる。マーガレットのどんな時にもちょっとしたことを楽しむ性格を褒め、自分が変わることを求め始める。
生きることに希望と情熱を見出そうと決めてからは、やったとしても誰に褒められるわけでもない厄介な仕事をたらい回しにするのではなく、最後までやり切ろうと動き始める。
部下たちはその情熱に驚きながらも、少しずつ動かされていく。特に、勤め始めて間もないシャープは働くということはどのようなことなのか、真の意味で学び始める。(つまり、職場に慣れるだけでは仕事ではない)
そうして、地域の母親たちが長らく希望していたものの案件としてたらい回しにされていた子どもの遊び場が、打ち捨てられていた町の一角に完成する。
完成すると、ウィリアムズは余命尽きて亡くなってしまう。部下たちは通勤列車の中でウィリアムズの意志を引き継ごう、と語り合う。
しかし、情熱は続かず様々な仕事は単なる書類として積み上げられ、以前の情熱や活気は失われてしまう。これも、「生きる」ことの一つの側面であろう。
ウィリアムズが成し遂げたことは他の人の手柄にされ、仕事を自らの責として引き受け、やり遂げるという美徳も職場において失われる。
こんなことでいいのだろうか、と思い悩んだ若手職員のシャープは、ウィリアムズと作り上げた子供の遊び場を1人で訪れる。
様々に去来する思いにふけっている時に、警察官に声をかけられ、ウィリアムズが雪の降る中ブランコに座り、妻の思い出につながるスコットランド民謡「ナナカマドの木」を歌っていたと聞かされる。
邪魔してはいけない気がして声をかけれなかった、という警察官の話を通して、ウィリアムズの最期をシャープと共に我々観客も知ることになる。
人生はいつか終わりを迎えるが、どのような態度で向き合うかは個々人が選ぶことだ。
名誉が自分のものとはならず、自分の仕事が忘れ去られる日は来る。
しかし、真摯に向き合うこと、そうすることによって発生する微かなきらめきのようなものをシャープはその遊び場で確かめて、自分の人生に戻っていく。
真摯に向き合うこと、親切でいること、落ち込んでいる人を励ますこと、どんなことも楽しんでやること。
生きる上での姿勢や指針のようなものを示してくれる本作だが、俳優陣の演技の素晴らしさ、まだ時代的にも確かに残っていた「イギリスらしさ」を表現する映像によって、大袈裟ではない慎ましやかな威厳が表現されていた。
個人的にはイギリス紳士的なるものを表現したビル•ナイも素晴らしかったのだが、明るく若くお茶目で、しかしきちんとした節度ある女性マーガレット(名前もピッタリ。まさにマーガレットの花のような女性)を絶妙な匙加減で演じたエイミー•ルー•ウッドも素晴らしかった。