都会(トビリシ)に住む者の個人主義と、都会の人間からは観光客に阿り形骸化したように見える地方(カヘティ)のアラヴェルディ聖堂の祭。坊主頭の都会の男が終始渋面で祭を観察しペシミスティックなモノローグを繰り返す。観光客と地元の人たちとの隔絶。どちらも擦り寄り、しかしどちらも道化みたいだ。
疾駆する馬の撮影も男の御し方も素晴らしいが、観念的な小さな革命は猫パンチに過ぎなかったことを眼前に広がる光景と関心を失った人々の点景から思い知りつつも、なお開き直りめいた男のモノローグは続く。地方の集団社会に接したときの個人という概念の脆弱さ。ハレの場に際して、その変化に気づくことなく小難しいことを考えることもなく、ただただその日が来ればその場に集い、終わればまた去っていくということ。
ジョージア映画祭にて