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逆転のトライアングルのlotusのレビュー・感想・評価

逆転のトライアングル(2022年製作の映画)
3.5
今の生活の中で価値あることが、別の場所に行くと何の価値も持たなくなることがある。

現在の生活で価値があるとされていることは、本当にそうなのだろうか?というのが皮肉を交えて描かれている。

主人公は、そこまで売れているわけではないモデルのカールと、その彼女のヤヤ。ヤヤはモデル兼インフルエンサーで、カールよりも売れている。

2人はヤヤのインフルエンサー特権で豪華クルーズの旅に参加することになる。クルーズ船には、年寄りの白人金持ち夫婦が何組も乗っている。

彼らの接客を担当するのは20〜50代くらいの白人スタッフ。
清掃などを担当するのは、有色人種で英語が母語ではないスタッフだ。彼らは乗船客に直接会うことはまずなく、船の下の方で普段は働いている。

金持ち客たちのわがままに、イエス、サー!イエス、マダム!と言って、ノーと言わないのが我々の仕事、さぁ、頑張ろう!とスタッフたちを盛り立てるスタッフ・チーフ。資本家にとって、彼らはとても優秀な労働者だ。

ロシア人金持ちマダムが、仕事はいいから楽しみなさい、プールで泳ぎなさい!スライダーから海に飛び降りて泳ぐのもいいわ!と言えば、彼らは仕事として海に飛び込む。
強制された享楽は、もはや楽しみでも何でもない。

風向きがおかしくなるのが、大シケの日のディナーだ。次々と料理が運び込まれるが、1人が船酔いで盛大に吐き戻すと、他の客もつられたように次々と吐き戻す。
おまけに、下水が故障し、トイレから汚水の逆流も始まる。

もはや豪華なディナーの様相は消え失せ、豪華客船は汚物にまみれていく。
おまけに、荒れた海の向こうから怪しい船が近づき、何かが船に投げ込まれる。

あら、これはうちの製品じゃない?とそれを拾い上げた老婦人が夫に尋ねた途端、豪華客船は爆発し、傾き沈んでいく。

金持ちにとって安全で労なく楽しめる生活の象徴であった船は沈み、乗客はまさしく荒波に投げ出される。

客の何人かは島に流れ着くが、そこで待ち受けていたのは自給自足の生活だ。
SNSにアップするための余分な食べ物は当然ない。救命ボートにわずかに残っていたなんてことないお菓子でさえ貴重だ。

この島ではお金も、インフルエンサーとしての影響力も、何の役にも立たない。
食糧を確保し、火を熾して調理できる人間の価値が一番高くなる。

そしてそれができるのは、豪華客船でトイレ清掃員をしていたアビゲイルだ。アジア系の彼女は小柄な中年女性だが、素潜りで魚を取れるし、火の熾し方、調理の仕方も知っている。

最初の獲物であるタコを調理し(島の柑橘系の果物を絞って味付けしており、おいしそう)、他の客に分け与えるが、自分だけ分け前が多い。
客船の接客チーフに、私たちは乗客の安全を守る義務がある、と言われるが、その船は沈んでもうない、元の世界に帰れるかもわからないじゃないか、と返答する。

そして、アビゲイルは皆に「キャプテンは誰か?」と尋ねる。そして、あなたです、と答えた人にはタコを投げ与えていく。まさにこの瞬間、ヒエラルキーが転覆したのだ。

火の番は男たちで、女は救命ボートの中で眠りましょう、とアビゲイルはてきぱきと指示を出していく。
金持ちの男は腕に巻いていた高級時計と引き換えに、救命ボートに入れてもらう。
残ったのは金のない若い男2人だ。(モデルのカールとエンジン室で働いていた黒人の男)

アビゲイルが海でとり、調理したものを食べる日々が繰り返される。ある日、アビゲイルはカールに救命ボートに来るよう指示する。

そしてそれが繰り返されるようになる。彼女のヤヤは嫉妬するが、食べ物を調達してくれるアビゲイルの機嫌を損ねたくはない。
カールは流されるまま、アビゲイルの娼夫になる。
この監督の作品ではよく優柔不断な白人男性に焦点が当てられるが、この映画ではカールがそれにあたる。
娼夫であることを他の男たちに笑われるのは嫌だが、アビゲイルの側にいれば、食べ物が与えられるし、良い場所で眠れる。自分でどうすべきか考える必要もない。

しかし、娼夫である自分に自我が納得できず、正式に付き合えば笑われることもないのでは、とアビゲイルに提案する。しかし、アビゲイルはそれには乗らない。あくまでそれはヤヤとあなたの問題で私は関係ない、楽しみたいだけだ、と伝える。

ここまでの顛末を見ていると、経済力を持っている人間がこのような態度を取るのであって、男というジェンダーは経済力を奪われた時、恋愛対象のジェンダーの人間を囲うこともできなければ、カールのように長年女たちが置かれていたのと同じ状況に置かれることもわかる。

階級ヒエラルキーの転覆だけでなく、ジェンダーの転覆も起こっている。

生まれ持った能力が、生まれ落ちた環境においてレバレッジが効くかどうかは偶然性に左右されることが、この映画を見ているとよくわかる。

ヤヤは美人でスタイルがいいが、それはSNSがあり、ランウェイがある場所でこそ価値を持つ。資本主義社会であり、かつ女性モデルのニーズが高い社会状況であることが前提となった価値だ。

男性モデルの収入は女性モデルの三分の一ほどと確かカールがぼやいていたが、それは多くの社会では女のほうが着飾るため、女性服のマーケットの方が大きいからだ。

男性が着飾る必要のある社会が一般的であれば、男性モデルの方が価値が高いだろう。(カールはヤヤやアビゲイルとの関係で自我が不安定になりがちなのだが、それがこうした社会構造と結びついていることをおそらくあまり理解していない。)

ラストのシーンでは、またヒエラルキーの転覆が起ころうとする。正確にいうと、ヒエラルキーが元の状態を取り戻すきっかけが見える。

資本主義、デジタル社会に適応したヤヤは、アビゲイルはマトリアーキー(家父長制の逆)を打ち立ててすごい!と尊敬の念を見せるが、いざ自分の美しさが意味を持つ世界への入り口が見えた時、露骨にすんなりと元のヒエラルキーに順応を見せる。

だが、アビゲイルは元の世界になんて戻りたくない。自分の能力が何の価値も持たない世界には戻りたくない。そして、価値というのは多分に相対的なものなのに、絶対的価値があるかのように振る舞い、無邪気に尊厳を傷つける奴らのもとで働くのも嫌だ。

元の世界への入り口からはEDMが聞こえてくる。アビゲイルはどのような決断をするのだろうか、というところで映画は終わる。

資本主義社会、SNS、ファッションへの批判など、強烈な皮肉で容赦なく描き出される。離島の生活は大変だけれど、私たちが生きている社会だってかなり大変だし、どっかおかしいんじゃない?というのを余すところなく見せてくれた。
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