耶馬英彦

劇場版 荒野に希望の灯をともすの耶馬英彦のレビュー・感想・評価

4.5
 小さな巨人。その呼び名が彼ほどふさわしい人間はいなかった。寛容と思いやりが心の広さだとするなら、彼ほど心が広い有名人を他に知らない。
 彼が殺されたとき、私はブログに次のように書いた。

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 国境なき医師団の中村哲が撃たれて死んだ。
 国内で有名なボランティアの尾畠さんと同じように、善意しかない人だった。もし尾畠さんが撃たれて死んだら、我々はどのように感じるだろうか。世の中にそんなひどいことをする人がいるのかと愕然とするだろう。
 中村哲が撃たれて死ななければならない理由など、この世に存在しない。にもかかわらず、彼は撃たれて死んだ。世界が彼を殺したのだ。この世の善意を我々が支えきれていないから、彼は撃たれてしまった。
 中村哲が撃たれて死ぬ世の中は、優しさに欠ける不寛容な世の中だ。愛くるしい子猫が惨たらしく殺されるのを黙ってみている世の中だ。生れたばかりの子供が爆弾で殺される世の中だ。ねじれた脚と乾いた涙だけが残る世の中だ。谷川俊太郎でなくても、中村哲が殺される世の中がどれほど酷い世の中であるかは解る。
 我々は我々自身に問わなければならない。どうして中村哲は殺されなければならなかったのか。
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 なんとも情緒的で性急な文章ではあるが、言い訳をすれば、自分も中村哲を殺した側にいる気がして、いたたまれなかったのだ。

 いままた映像の中で観ることができた中村哲は、相変わらず寛容で、自省的だ。低姿勢で柔らかな物腰ながら、内に秘めたエネルギーは無尽蔵で、その行動力は疲れを知らない。
 外国人を殺すための武器を着々と装備する政治家がいる一方、中村哲は武器は平和にそぐわないと一蹴する。暴力に暴力で対応していては、いつまでも平和は来ない。大切にするべきはただひとつ、国の威信や利益ではなく、人の命なんだと、それが平和ということなんだと、力強く主張する。

 本作品は中村哲の偉業を紹介するとともに、アフガニスタンやパキスタンの惨状も明らかにする。貧しく、傷ついて、無力な人々の群れ。アメリカは911の首謀者はアフガニスタンだと決めつけて、爆撃し、機銃掃射をする。

 人間は自然の一部で、自然の恩恵を受けて生きているというのが中村哲の世界観である。自然を制御できるなどというのは人間の驕りに過ぎない。謙虚に自然と向き合って、自然を理解し、人々が健康に生きられるようにしなければならない。それが第一義だ。医師として病気を治すより前に、健康な生活を取り戻させなければならない。だから井戸を掘る。用水路を建設する。

 腹立たしいことがあっても、本作品の中村哲を思い出せば、腹も立たなくなる。正しい人も悪い人も、中村哲は分け隔てなく治した。自然が善人と悪人を区別しないのと同じだ。命に区別はない。すべての命を大切にする。それが平和だ。まさしく中村哲の言う通りである。
 いつか人類が、他人を敵と味方に分けて争う愚かしさに気づいたとき、初めて中村哲の偉大さを理解するだろう。人類はそのときまで滅びずに存続しているだろうか。
耶馬英彦

耶馬英彦