素晴らしかった。ナン・ゴールディンの生育歴と家族環境、作品と交流の変遷からオピオイド系鎮痛剤の薬害によるサックラー家への抗議活動とその成果まで、彼女の行動原理がすべてつながっている。それがものすごくよくわかる。ずっと目が離せなかった。
作中「芸術が政治に介入すべきではない」というふうな反論のシーンがあったが(まじでよく聞くテンプレ)政治は社会の中にあるもので、社会に対して意思表示することは社会に生きてる以上誰であろうと当たり前のことだろうよ!という説得力がある。事実、ゴールディンたちの抗議活動が美術館側を動かした。
彼女が立ち上げた抗議団体PAINのメンバーや抗議に賛同する人たちには若い人もたくさんいる。あと美術館内で(おそらくゲリラ的に)抗議活動やダイインをしてもとりあえず退去させられることがない。やはり権利の保障がされてるのかな。国立西洋美術館でおこなわれた川崎重工への抗議活動のことを思い出した。
とはいえ寧ろ作品を扱われる側である、もう70歳になるゴールディンが全く譲歩しない(それができるだけのステータスを既に獲得しているという勝算があったのかもしれないが)エネルギーがどこから来るのか、その裏づけがアンコの部分で、そして終盤にしっかり表される。その構成はとてもよかった。
余談だが、かつてナン・ゴールディンと荒木経惟が共作したことがあり(1994年だったらしい)そのころのスタジオボイスの特集かなんかで初めてナン・ゴールディンを知ったのだけど、私が荒木経惟のおおかたの作品とそのころの写真をめぐる動きの一端(ガーリーフォトという不幸な名をつけられた動き)をなんとなく好きになれなかったのもありナン・ゴールディンの作品も遠巻きに眺める感じだった。記憶に強烈だったのは彼女が恋人から暴力を振るわれて目を激しく損傷している写真。その後ゴールディンの作品に触れる機会が無かったのだけど、今日の映画でみた彼女のスライド作品やその経緯からすると、なんか荒木経惟の作品とは似て非なるものじゃないか?と思った。
それでググったらこんな記事があった。
https://www.webchikuma.jp/articles/-/1437
ナン・ゴールディンの写真はほんとうの意味での「私」の写真で、温かさや優しさも悲しみもあり、同時に「社会」を強烈に感じさせる。