ニトー

ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!のニトーのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

映画観る前にすでにパンフレットと資料・メイキング本が手元に揃っているというちぐはぐ具合。
平日とはいえ公開3週目にもかかわらず一日の上映回数が字幕と吹き替え合わせて3回と少な目。90年代は日本でもかなり人気があったコンテンツはずなのですが……。

言語版の声優が豪華ということでそっちを見たかったのだけれどこの手の映画(厳密には違うんだけど、配給側の扱いとしてのイルミネーションアニメ的な)にありがちな字幕<吹き替えの憂き目に会い、行ける時間が吹き替えだけだったので言語版では観れず。まあぶっちゃけ向こうの大物俳優とかアーティストの声とか言われてもネイティブでもないので顔とセットじゃないとぶっちゃけ分からないのでそこまで気にしてないんですけどね。そもそもシュワルツェネッガーの映画を観て本人の声じゃなくて玄田哲章の方が馴染んでるわけですし(偏見)。

私自身の吹き替えに対するスタンスとしてはいわゆる芸能人枠にあまり好意的ではないのですが、本作ではあまり気にならず。エイプリルが少したどたどしいかな~と思えるけどキャラのこと考えれば許容範囲。良くも悪くも目立たない声と言う感じ(これに限らず新海映画とかもそうだけど芸能人の吹き替えは往々にして平板に聞こえるので)。それにこの客入りのなさや週末ランキングの低さを見ると、少しでも客寄せのためにテレビなどの”マス”メディアへの露出が多い人をキャスティングしたくなる配給側の気持ちも分からなくはないのですがね。本作に関してそれが功を奏しているかどうかというのはまた別問題として。

てなわけで本題ですが、まあ思った通りかなり面白かったです。「スパイダーバース」以降のCGアニメ表現として、映像のルックばかり語られがち(まあ仕方ない)ですが、劇中で使われる歌も劇伴も良いし、アクションの見せ方も工夫されてるしアクションの種類自体も豊富、ストーリーも変に捻ったりせずそれでいてティーンの自意識とフリークスの悲哀を(くどさを感じさせず)重ね合わせて描く作劇、それぞれのキャラクターの強度(それこそタートルズはルック的にも演技的にも個々で考えると一番弱いくらい)などなど、映像表現云々以前に劇映画として単純に面白い。当たり前のことを当たり前にやる、ということがいかに偉大なことなのかということがよくわかる。もっとも、作り手の自意識はそういったメインストリームに対する(敬意はありつつ)ある種のカウンターとしてあるようですが(笑)。

それの意識はルックのコンセプトからも垣間見える。パンフレットによるプロダクションノート曰く、「ティーンエイジャーが描いた絵のように見せたかった」「高校生の時に皆が描くような、変な形やパースのおかしい、でもあちこちに描かれた絵」「あなたが10代のころ、授業に退屈してノートの端に落書きしたのを覚えていますか?私たちが望んでいる者はまさにそれです」である。

ルックの異様さというのは映像よりもむしろパンフレットのスチルというか静止画で観た方がよくわかるほどなのだが、1コマ1コマの絵の線が不均一で雑然としておりコンセプトアートのような緻密に作画されてないがゆえのダイナミズムを持っている。それはある種の線の荒さやクレヨンや油絵のような重さを感じる塗りに依っている。言うまでもないがそれは単に雑だったり手抜きをしているわけではなく、むしろその逆で精密さを得意とするCGを駆使しながらその真逆の方向性を指向するという二律背反によって成り立っているわけで。それは紛れもなく主流に対する傍流、地上に対して地下水路に住まうタートルズのキャラクター像とも一致している。

であるがゆえに、この映画は出来る限り最高の上映型式で観るべきだ。残念ながら今回は普通の上映型式でしか観れなかったのだけれど、「スパイダーバース」がそうであったように、IMAXとかで観るべきだ、これは。上述したようなことだけでなく、たとえばライティングにしても本作は基本的に夜の場面がほとんどで、昼間の場面というのは最後の最後くらいなもの(あれも「トイストーリー4」における「屋内(外)」モチーフと通じる表現であろう)であるから、色彩がよりはっきりとわかるIMAXなどが良いと思う。

あとビジュアルコンセプトにおけるモチーフの中に日本の暴走族がある(アート・オブ・ミュータントタートルズより)というのがちょっと笑ってしまった。ちょうど少し前に「ヤンキー人類学」を読み終わったばかりだったので、本作とヤンキー(≒暴走族)というのは疑似親子関係(の転覆)というのも含めてこの映画にピッタリじゃんと思ったので。そもそもタートルズがストリートカルチャー要素を多分に含んでいるので当然と言えば当然なのだけれど。

撮影スタイルについてはスパイク・ジョーンズやPTAなどの影響を上げてるが、その中で特に印象的だったのはアルフォンソ・キュアロンだった。どこが、と言えば「疑似長回し」なんだけど、特に「天国の口、終わりの楽園。」なのだと。言われて確かに本作にもそのような長回しがあったことを思い出すのだが、これについて「彼の長回しは、キャラクターたちと一緒にいるような気分にさせてくれます」と言ってるのだが、物は言いようである。キュアロンの場合はそれが黒沢清的な「その出来事にかち合ってしまった」ことを観客にもたらすことにあると思っている身からすれば、「そうだけどそうじゃない」というか。どうでもいいが吹き替えでエイプリルが「違う、そうじゃない」と言った時に鈴木将雅之を思い出したのが私です。脳みそがネットミームに汚損されていることをしみじみ痛感した瞬間でした。

撮影スタイルやルック以外の、お話の部分も前述のとおりグッとくるものがある。タートルズがオスなのでそこに少女の眼差しがあったかというと、エイプリルにそこまでのものを感じられたわけではないのだけど(いわばサイドキックだし)、「ティーン」であることを全面に打ち出していることによる思春期(少年)の自意識を描きつつそこにフリークスの悲哀を織り込んで見せたのはナイスである。

話自体はティム・バートンよりもさらにマスに刺さるように(そりゃタートルズであることよりティーンエイジであることを意識しているわけですので)作られているように見えて、実はタートルズ以外のミュータンツのデザインのグロさは割とマジで不快感を催しかねないレベルなのも作り手のカウンタースピリッツが見える。だって蠅の体毛とか何ですかあれ。ロックステディにしてもビーバップにしてもあんな体毛をリアルに描く必要はなかろうと言う話でしょうよ。いや私は声優の演技や劇中での「バイブス」の噛み合い具合(ボーリング場の疑似長回しの馬が合う感最高)からも「あ、こいつら全員すき」となる(少なくとも私はなった)愛嬌ある描き方をされているにしても。まあコンセプチュアルなおかげで実写版のようなヤングアダルトな亀人間が暴れまわるだけのような(嫌いじゃないけど)映画ではなくなっていることも向こうでのヒットに繋がっているのでしょうが。

アメコミ原作という繋がりでヒーロー映画的な切り口も不可能ではないだろうけれど、しかしたとえば同じくティーンの葛藤を描いた「スパイダーマン」ですらその葛藤の中心にあるのは「力」を巡るものであり、その土台はやはりヒーロー映画の上にティーンというフレーバーをふりかけたようなものだったのだと、本作を見た後で思う。

なぜならタートルズは「力」を巡る葛藤なんてこれっぽっちもないからだ。「アリスとテレス~」でも言及したような気がするのだけれど、それが行きつく先というのは多分ジョシュ・トランクの「クロニクル」になってしまう。本作はそれを上手く回避……というかそもそもそっちに振れるつもりが全くないのだ。だから「エンドゲームのハルク」のように茶化しのように使うことも厭わない。タートルズは別にヒーローになりたいわけでもなければ力を巡る葛藤もしないからだ。おそらくそれは、アニメーションという「なんでもアリ」だからこそ可能なことなのだろう。どれだけ誇張された表現もアニメであるならば実写のような疑念を差し挟みづらいのだから。

ティーン(とフリークス)としての自意識を巡る問題は、劇中での野外シアターで上映されているのがジョン・ヒューズの「フェリスはある朝突然に」であることからも明らかだ。ジョン・ヒューズ引用されすぎだろ、と思わなくもないけど。ある年代のアメリカ人にとってはそれほどまでに影響ある映画だったということではあるのでしょう。

そもそも製作・脚本・出演のセス・ローゲンが向こうでカルト的人気の「フリークス学園(原題もFreaks and Geeks)」に出てるわけ(これにしてもジョン・ヒューズの影響は少なくないだろう)で、座組としては真っ当であるとすらいえる。もっとも、ジョン・ヒューズの本質というのは(「フェリス~」「ブレックファスト~」のレビューでも書いたけれど)成長しえないティーンエイジャーと言う部分にあると思うのですが、まあこっちはアニメですから。成長もくそも身体性を持ちえないアニメに(まあ毛の表現については自分の「フェリス~」レビューを読んでいて「もしや」と思ったりはしたのだが)それは作り手の匙加減でしかないので。

まあ、なんてこと書きながら個人的にはティーン部分よりもフリークス要素、特にタートルズではないミュータンツの方にこそ思い入れがあるのだけれど。バクスター博士からしてアレであるし。

主人公であり正道たるタートルズと違ってスーパーフライ率いるミュータンツはモチーフからしてグロテスクなキャラが多い。そんな彼らの持つ悲哀と、それをある意味では利用して家父長的パターナリズムによって疑似家族を維持してきたスーパーフライに対する反旗を翻す展開からのスマートさのかけらもない(だがそれがいい)肉弾押し合いからの怪獣映画への転換、さらにそこからバトンリレー方式(エンドゲームじゃねえか!)でトドめなのだけれど、その一連のシークエンスのまさにバイブスの合致具合はもう垂涎もの。個人的には特にロックステディとビーバップがタクシーをがっしと受け止めるカットで「フリークスがまともにかっこいい」のが素晴らしかった。そこにスプリンター先生の人間不信を逆転させるシーンなど盛り込みおって、捻くれた自分ですら「イエス!」柏手ものでしたよ、ええ。

合流する前から「こいつら絶対仲良くなるじゃん」というのを本当に一作のうちでやってしまう潔さも含め、王道を描きつつ鼠とスカムバグの老年異種恋愛という特殊性辟ましまし要素まであり(ベロチューはほかのアニメ映画ではやらんでしょう。まあ「ソーセージパーティ」作った人だしなぁ)、そんなとこまで主流かつ傍流のマインドが通底しておりその一貫性こそがこの映画の強みなのだろうと自身を持って言える。


どうでもいいことなのだが「Anime club」の募集広告、あれヒロアカのデクだろ?デクだよな?(笑)。進撃の巨人への言及など日本アニメがアメリカのティーンの間でどのように受容されているのかというのが何となくわかるのだけれど、直接のアクションシーンは「長ぐつをはいたネコと9つの命」の方がまんまな感じでやっていたりして、その辺もちゃんとフォローしないとマズいなと思う今日この頃。


アート・オブ・ミュータントタートルズを読み終わって何かあったらまた追記するかもしれない。しないかもしれない。
ネトフリのガメラもリブートされたし今亀が熱い。
ニトー

ニトー