映画を撮り続ける人生へ至る物語を、文字通りカメラ越しからの視座で描く事によって、撮る側のフェイブルマン(=スピルバーグ)本人以上に、撮られる側へフォーカスが当たっていく。
その中心にあるのが家族なのは勿論なんだけど、個人的に掴まれたのはフィルムに刻まれる様々なアクターの存在。
そして、その存在がカメラや自分のフィルターを通す事でどんな風に変化するのか気づいていく、フェイブルマン本人の眼差し。
この「映す」側、演じて「もらう」側の視座に、映画…ひいては創作においての「業」が集約されている。
魔法のような興奮の中で、誰かの何かが確実に変わり、それは作り手の想像を超え、作品の外側で良い方にも悪い方にも綻ぶ。
それでも尚創作を求める者がその運命に引き寄せられていく様子が、家族の変遷を通してそれこそ魔法のように描かれていた。
創作者への覚悟を問うなんて大それたものではないけど、むしろスピルバーグの自伝的なアプローチでここまでありありと創作の「業」を描かれる方が、余程身の引き締まる思いにさせられた。
この映画、創作する側でない人が観たら一体どんな感想になるんだろう。
「スピルバーグっておじちゃん、すごいなあ」で終わるんだろうか。
家族の物語としての分かりやすいフックはあるにしても。
終わり方もとてもドライで、「あ、これで終わりか」と感じて。
ただそれでも「え、もう151分経ったのか」の驚きの方が大きかったので、きっとどんな境遇の人でも夢中になり得る映画として成立はしているのだろう。