河

独裁者たちのときの河のレビュー・感想・評価

独裁者たちのとき(2022年製作の映画)
3.5
ディープフェイク風の映像が現実離れしていると同時に気持ち悪く、音楽も壮大な音楽が複数同時に鳴り続けるなど、異界のような感覚と不快感、何か恐ろしい予感のような感覚が持続する。

原題は『おとぎ話』チャーチル、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニという第二次世界大戦下の独裁者達が、死後天国/地獄に向かう扉の前の世界で待たされている。そこには痛みに苦しむキリストも同様に待たされており、扉の向こうにはナポレオンがいる。彼らを待たせるのは神(のような何か)であるが、チャーチルだけが扉の先に行くことを約束される。他の3人は「また必要になるから」という理由で保留される。ということは、ナポレオンやチャーチルはもう必要なくなった(もう現世に現れることのない)人物であり、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニはこれからもキリストと同様に神にとって必要となる存在であるということになる。

独裁者達にとって、身近な人間以外は全て大衆であり、区別がついていない。大衆は黒い波のように、人と人の境目がなくなった状態で表現される。彼らは、ワーグナーなどの崇高な音楽と共に氾濫する。言わば、独裁者達にとって彼らはワーグナーを流すための存在である。苦しみによって編んだ紐で悪魔を殺すというような引用が冒頭に表れるが、大衆は独裁者達への恨みや殺意を苦しみの中で表現はするが、独裁者達を殺すことは最後までない。

実際の独裁者達の映像を使い、実際に彼らが話したと記録されているセリフだけを使用しアテレコであてているらしい。それらを継ぎはぎし、独裁者達が互いに会話しているように見せている。彼らはある種、どこにでもいる嫌なおっさんのように見え、だからこそ実際の映像であり実際に発された言葉であることが重要となる。彼らが今いる誰かに見えるとすれば、彼らは今いるかもしれないということになる。神は彼らを今後必要になる存在として天国/地獄の扉の前で待機させており、大衆は彼らを殺さない。『おとぎ話』というタイトルは、彼ら独裁者が当時の特殊な状況によって生まれたのではなく、普遍的に生まれ得ることを示唆する。ムッソリーニやヒトラー、スターリンのような独裁者達は今、これからも現れ得るというような感覚を残す。「全て忘れられ、また始まる」「全員が赦される」というセリフが印象的におかれている。
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