河

太陽の河のレビュー・感想・評価

太陽(2005年製作の映画)
4.6
日独伊の権力者の中で、ヒトラーやムッソリーニは描かれるのに、昭和天皇は描かれないのは何故かということが理解されるような映画。ある種特殊な権力者像を描いている。権力者の認知の歪みを描くことで、歪みを齎す状況、社会を描こうとしているように感じられる。

この映画において昭和天皇は40代だが子供と大人の狭間にあり、ハリウッドスターの写真を集めていて、妻の写真にキスをするシーンに象徴的なように、思春期にある人物として描かれている。前半に登場するのは軍部の重役と天皇の従者のみとなっている。軍部の重役達が赤く太っているのに対して、天皇は国民を内在化したように青白く痩せている。天皇は後半に米軍司令官が子供を国民の比喩として使うが、天皇は登場人物の中で子供に近く、そして国民にも近い存在となっている。しかし、同時に天皇は皇居やシェルターに閉じ込められており、戦争から一番遠い存在となっている。軍部の重役達が汗や涙を流しながら敗戦状況を語るのに対して、天皇は冷えたような面持ちで遠い出来事のように聞いている。天皇の想像した東京大空襲は、研究している海洋生物が爆弾を落とすという、現実離れしたものになっている。

前半において天皇の周囲には大人しか存在しない。そして戦争に関しては全て軍部が行なっており、天皇の身の回りの世話は全て従者が行っている。そのために、天皇は国家や戦争について何も語ることができず、ドアを開けることすらできない。ある種、大人になることや自立することを防がれた存在である。子供であることは、物を食べる時に鳴るくちゃくちゃ音、緊張した時に発露するおしゃぶりを求めるような口の動きにも現れている。そして、それは天皇は日本国民からは天照大神の子孫であり、現前神だと信じ込まれているためである。しかし、天皇は自身が人間ではないのではないかと疑っている。

天皇は大人と子供の狭間にあると同時に、神である自分と人間である自分の間で分裂している。それは否定的な意味での偶像であると見做されることとチャップリンのようなスターとして見做されることの間での分裂でもある。この揺らぎ、分裂は音楽の背景に絶えず鳴り続けるノイズによっても表現される。敗戦直前を描く前半では、周囲には天皇を神として扱うものしかいないため、天皇は子供のようにあらゆることを他人に世話されており、自分が人間であることを何度も主張しようとする。それに対して、敗戦直後には天皇が子供であり、人間であると見做す米国軍が現れる。天皇は彼らに対して、今度は逆に自分が神であり国民の太陽であることを主張するようになり、従者達に対しても大人として振る舞おうとする。

転換点として敗戦後、天皇が米軍司令官と米軍翻訳者の二人と初めて会話するシーンがある。翻訳者は天皇を日本国民であるかのように崇拝しており、神である天皇に対して日本語で話すように望むが、天皇は「相手の国の言葉を話すのが外交の基本だ」と言い、自分の有能さを示すように英語を話し、そして話せる言語を一つずつ列挙する。しかし、外交はコミュニケーションとしてすら成立せず、司令官に「子供のようだ」という印象を残す結果となる(その後、チョコレートが天皇の元に送られてくる)。そのために、今度は自分が神であるということを示すように翻訳者に言われたように日本語で、得意な詩歌のような形式で捲し立てる。ここで、神である自分と、神でないどころかトップとしての能力すらない自分との間の分裂が明確になる。人間/子供としての自分と神/大人としての自分への分裂を象徴するのが英語で話す時の人称であり、天皇は自分を「I」ではなく「Emperor」「He」つまり三人称で呼んでいる。

天皇は海洋生物の研究者であり、研究者であることは人間としての天皇を規定する要素となっている。そして科学もまた、天皇の認知を揺るがす。天皇の語る明治天皇が皇居で極光(オーロラ)を見たというエピソード(フィクションらしい)は、戦中は自身が神であるということを裏付けるものであり、自分は人間でないかと疑う天皇を不安にさせるものであった。敗戦後、今度は自身が神でないことに揺らぐ天皇は科学者を呼ぶ。科学者は極光が日本では発生し得ないことを伝える。科学/人間の側に立てば、自身が神でないこととなる。

天皇は国について語ることができない一方で、自分を大人として見せようとする。二度目の司令官との会話において、天皇が自身を人間だと宣言するかどうかが論点となるが、それを質問された時に「肉おいしい!(Tasty meat!)」という子供のような台詞を発することで会話を切る。そして、天皇であることは大変なことだと話し、それを自分の得意な海洋生物の話へと繋げる。司令官は子供を自国民の比喩として、子供が何を好いているのか、自国民がどのような方向性にあるのかを語る。それに対して、天皇は自分の子供の話も、自国民の話もすることができず、葉巻を吸わせてくれと伝え、再び会話を切る。ここでは自分が大人であることを示そうとしているように感じられるが、葉巻を吸って咽せる。

天皇は戦時中、神と人間、もしくは子供と世話する大人という非対称な関係性でしかコミュニケーションをとっていない。そのために司令官や妻という同年代の二人とのコミュニケーションがうまくいかない。同時に、そのために孤独である。詩歌や海洋生物の研究は自分に能力があることを示すものであると同時に、唯一のコミュニケーション手段でもある。天皇は海洋生物の研究や一人で詩歌を書くことによって、自分や日本を発見していく(周囲の大人が教えてくれなかった大正13年の意味に気づくなど)。国民や軍部の人々に対して、詩歌として神から人間へと伝えるという形のコミュニケーションしかとれなかったために、妻や司令官に対しても詩歌でしか反応することができない。天皇は詩歌によって国民に一方的に語りかけることはできるが、妻にも司令官にも詩歌は伝わらない。

天皇にとって自分が人間であるか神であるかは重大な問題であるのに対して、司令官や妻は天皇が神とされているだけで実際は人間であることを知っている。天皇は自分が人間であることを宣言することで「運命を退けたのだ」と話すが、妻は薄い反応しかしない。それは自分が国民に対して力を持った存在なのだという誇示でもあるように感じられる。皇居に帰ってきた子供に会いに行こうとする途中、人間宣言を読んだ部下が自決したという事実によってそれが裏付けられる。天皇は神にさせられていたために、それに対して責任を持つことはできない。それは戦争に対しても同様である。ラストシーンは、天皇は神/大人であることを誇示しようとするが、そうあることに責任を持つことはできないことを示す。天皇は神であり太陽であると同時にそうでない。劇中に子供は現れず、そのために天皇が子供であることが強調される。そして、妻との子供の元に向かっていくシーンで終わることで、天皇がこれから人間として大人へと成長する可能性に開かれている。
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