河

バッド・チューニングの河のレビュー・感想・評価

バッド・チューニング(1993年製作の映画)
5.0
大学生になりたてだった頃に好きで何度も見ていたが、今見ると全く違う形で刺さる映画となっていた。

最後に、主人公格であるピンク(ランドール・“ピンク”・フロイド)が、薬も酒もやらないというフットボールを続けるための誓約書をコーチに突き返す。それを見たマシュー・マコノヒー演じるデイヴィッドが「それがロックンロールだ!」と言う。ピンク・フロイドがエアロスミスへと移行する。そのロックンロールが、舞台設定である76年以降どのようなものになっていったか。フットボールというジョックス的ステータスは、将来のキャリアを約束するものである。舞台はアメリカ南部。最後に、ピンクは彼女とデヴィッドと、スレーターと共に車でエアロスミスのチケットを取りに向かう。スレーターは劇中常にハイであり、デヴィッドは地元で労働者として働きながらも15年近く下の高校生のコミュニティにOBとして参加している。彼らはコーチのセリフでも明示されるように、劇中において「負け組」としておかれた人物たちである。プロムから出ていく新高校一年生達に先生がかける、「一度出たらもう二度と入れない」という言葉は象徴的である。ピンクは、フットボールから降り、彼ら「負け組」と名指される人々を選ぶ。デイヴィッドは自分の時代には誓約書はなかったと言う。制度化されていく社会の中で、劇中描かれたような暴力的であり自由な行動は規制されていく。そして規制の外へ出た人々は負け組というカテゴリーへと入れられるようになる。決められたルールやルートに従えばwinnerとなり、そこから逸脱すればloserと定められる。プロムの会場も、本来パーティが行われるはずだった家も、どちらのパーティ会場も大人に管理されたものとなってしまっている。劇中の人物たちが自由なのは学校の外、その中でも大人たちの寝静まった夜だけである。そしてきっと劇中世界に広がる自由な夜もまた失われていくのだろう。ラストショット、エアロスミスのチケットを買いに向かうピンク達の車、その目の前に広がる道が映されて終わる。不穏に揺れながら映される一直線の道路は解放感を持たず、その先に希望的な未来を感じさせない。劇中、予定されていたパーティが中止となったために新3年生達は行き先を持たないままダラダラと車を走らせ続ける。そして彼らが行き着くのはムーン・タワーという電力発電の人工の明かりの元である。月面着陸は69年であり、死のリスクを冒して登るタワーの先から見えるのは退屈な街の夜景だけである。これはアメリカンニューシネマであるが、破滅という明確な終わりすら用意されていない。『dazed and confused』という原題は劇中に通底している、何をすべきかがわからないまま、行き先を失ったまま道をランダムに進んでいく状態を表したものだろう。

対象となるのは高校新1年生、高校新3年生、そしてコーチや先生など大人たちである。高校新3年生は子どもである新1年生と、大人たちの間、子どもであり大人である人々としておかれている。同時に、高校というヒエラルキーの中では最も上である。新高校3年生から新高校1年生に対して行われる「通過儀礼」は、大人たちによる暴力の再生産である。男子生徒たちはクリケットのバットで尻を叩かれる。女子生徒たちは「空襲!」という掛け声の元戦争のシュミレーションを行わされる。彼女たちは赤のケチャップと黄色のマスタードをかけられる。赤と黄色はベトナム国旗の象徴だろう。彼らが模倣する大人たちの暴力とは、75年まで行われていたベトナム戦争なのだろう。だから、パーティは喧嘩の後の「このファシスト野郎!」という叫び声と共に終わる。その叫び声を発した男は言いがかりによって喧嘩を一方的に仕掛け、そしてボコボコに負ける。喧嘩をしかけられるのは、大麻好きの男たちである。ヒッピー的文化の終わり、ロックンロールの一つの終わりが、ベトナム戦争の敗戦と重ねられている。ピンクが、ピンクフロイドと重ねられているのは、彼がそこに属しているようで属していないからだろう。同時に、「通過儀礼」は、新3年生と新1年生を繋ぐ機会としても機能している。はじめ、新1年生たちは新3年生に憧れているように見える。しかし、パーティまで参加する二人の新1年生たちは結果的に、新3年生に従い続けない。男子生徒は新3年生のアドバイスに全く従わず、女子生徒もまた新3年生の命令を無視するようになる。そして、二人が結ばれる新3年生は、フットボール部ではない人々である。新3年生は謂わば旧世代であり新1年生は新しい世代としておかれている。「負け組」へと仲間入りするピンクに対して、新1年生の二人は、新しい世代として別の形の道を感じさせる形で終わる。
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