Jun潤

ナチスに仕掛けたチェスゲームのJun潤のレビュー・感想・評価

4.5
2023.07.22

ポスターを見て気になった作品。
『ナチス』と『チェス』という初見の組み合わせに惹かれた部分もあります。
事前情報は入れていませんが、終戦記念日も近いですし、期待していきましょう。

ロッテルダム港を出発し、NYへと向かう豪華客船に、一人の男性が乗り込む。
「ヨーゼフ」と、婦人が話しかける。
古くからの知り合いのように、連れ立って船に乗り込んでいく。
「ヨーゼフ」が自署したサインは、「マックス・フォン・ルーベン」。
果たして、彼の正体はー。

舞台は移ろい、ナチス・ドイツによる侵攻が進むオーストリア、ウィーン。
ヨーゼフは公証人の職に就きながら、妻のアンナと共に、情勢に構うことなく社交界に躍り出ていた。
しかし友人のグストルが訪ねてきたことにより彼の世界は一変する。

舞台は再びNYへ向かう船の上。
“男”の様子がおかしくても「アンナ」は側に付き添う。
船にはチェスの世界チャンピオン・ミルコが同乗しており、富豪達と同時に対局し、ほぼ全ての試合に勝利していた。
最後に残った一人に対して、男がアドバイスをしたことで、絶体絶命の盤面から引き分けに持ち越す。
富豪達に実力が認められた男は、ミルコとの対局を求められる。
しかし男は駒に触るのは初めてだと言い、姿の見えないアンナを捜しに向かう。
どこにもいないアンナの所在を乗務員に確認すると、乗客リストにその名前は無く、二人で食事する様子を見ていたウェイターに確認すると、男は一人で食事していたというー。

ウィーン、メトロポール・ホテル。
ヨーゼフは貴族達の資産を預けた銀行の暗証番号を知っている人物として、ナチスの秘密警察によって監禁されていた。
最低限の設備しかない部屋、失われていく時間の感覚、終わりは見えない。
秘密警察から拷問を受けることはなく、大きな絶望もないが、微かな希望すら無い。
そんなヨーゼフが掴んだのは一冊の本、そこには、チェスの棋譜が書かれていた。
隠れて本の世界に没頭していくヨーゼフ。

本から得た情報でヨーゼフが頭の中で創造する盤面と、船上で繰り広げられる盤面がリンクする。
その本に載っている写真の人物の名前は、「マックス・フォン・ルーベン」ー。

っはぁ〜〜、っべぇ……。
どんでん返し系サスペンス・スリラーもここまで突き詰めていくと、複雑かつシンプル、難解にして容易く、素晴らしく不気味な作品に仕上がるのですね。
前日鑑賞の『神回』と合わせて、伊藤潤二御大の『長い夢』を思い出しました。

今作は細かく散りばめられた伏線の数々を丁寧に回収していく緻密なストーリー展開もさることながら、いつどんな状況にあっても忘れない深い愛情、戦争が曝け出す人間の狂気、極限まで追い詰められた人間が発揮する想像×想像力を描いた人間讃歌でした。
作中で言及されたオデュッセウスが登場するギリシャ神話や、今作には関係ないですが化石から再現する生きている恐竜、そして今作に登場するヨーゼフとミルコが見せた奇跡など、人間の想像×想像力ははるか昔から現代にいたるまでとてつもなく発揮され続けてきたのですね。
そんな創造物が見られることへの感謝と共に、クリエイティビティを磨き続け世に出してきた方々を讃えたくなる作品。

今作こそラスト5分の衝撃と言われるに相応しい作品でしたが、個人的にはそこは後奏のようなもので、最高潮の場面はヨーゼフとミルコの対局でした。
対局までの描写でこんな僕が想像できたのは、ヨーゼフが相対しているミルコは、チェスのチャンピオンという名声を獲得した未来の自分であり、極限状況の中でチェスに希望を見出した現在の自分であり、居場所も友人も唯一の娯楽も、時間感覚や人間性を失ってしまった過去の自分だったんだということです。
観る人によって、想像力が豊かな人ならもっと色んなものを感じ取れるのかもしれません、むしろそこにも期待したくなる。

しかし、ヨーゼフが見ていたものは夢か現か幻か。
全て存在し、一つも存在していなかった。
極限の極限、最後の最後の最後に行き着く先には、人間を人間らしくする何もかもを失っても、自ら掴んだ希望と、深く想った愛情を失うことはないという、素晴らしく残酷で切ない、あまりに大きい空虚なラストでした。

原作者にとって本作は遺作であり、今作を上梓した直後に自殺してしまったとのこと。
そういう意味で言うと今作はシンプルなフィクションではなく、極限まで追い詰められた人間が創造するものへの大きな尊敬と同じくらいの畏れを抱かせる、ある意味問題の多い大傑作ですね。
Jun潤

Jun潤