イスケ

12日の殺人のイスケのネタバレレビュー・内容・結末

12日の殺人(2022年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

「(クララが)殺された理由を知りたい?
 教えてあげる。女の子だからよ。」

「犯人が見つからないのは、
『すべての男』が犯人だからです。」

犯人の背中を追う中で、クララの親友・ナニーの言葉をキッカケとして、男性優位社会の中を生きている男は「全員が加害者」だとヨアンは考えるようになったんでしょうね。


警察組織の1つのゴールは事件の解決。
様々な客観的証拠を見つけながら捜査を進めていくことになる。

しかし、解決までの道のりが遠く、泥沼化してしまったら?
ゴールありきで犯人像を作り上げてしまうという本末転倒なことを行なってしまうんでしょう。

やたら犯人だと決めつけた取調べを行うシーンが多かったこと、
何よりこの作品が「未解決事件」を扱っている意味合いの最たる理由はそこなんじゃないかと思う。

未解決事件こそ、捜査官の思惑・思い込み・潜在的な差別などが入り込みやすいのだと。
ひいては、ほとんどの男性が気づかぬままに女性より優位に立っているのが人間社会なのだと。
これらを潜在的な価値観を炙り出す形で顕在化させたのが本作だったのだと感じた。

集団でも個人でも、うまくいっている時は冷静な態度を取れるけれど、ひとたびうまく回らなくなった時に、潜在的な気持ちや本当の姿が顔を表すものだから。


事件に関係のある要素だけで被害者の人格が作られていく。そしてそれは男女の感情のもつれの話になりやすい。
そうやってクララの人格は、「性に奔放な女性」として作り上げられてしまう。

「クララのせいにしないで」
「尻軽扱いしないで」
「誰と寝てても関係ないでしょ」

序盤にナニーが情報を小出しにすることに対して、ヨアンが注意をするシーンがあったけれど、彼女は男たちが「クララにも悪い部分があったよね」という方向へ話を持っていくことを女性としての経験上で分かっていたからこそ、せめて親友の名誉を守りたかったんだろうと後になって理解できた。

ナニーはクララのことなら他にいくらでも話したいことがあったはずなんだよ。
クララの亡くなった場所に置かれていた見舞い品の多さが「性に奔放なクララ」とは別の姿を代弁していたと思う。


ナニーとの会話の後でヨアンの心には変化が生まれた。
また、同僚のマルソーは別れそうな妻と同じ名前の女性がDV被害に遭っていると考え、行動を起こした。

彼らふたりは、少なくとも他の同僚たちよりは「女性の味方」という自覚があったんじゃないかな。

でもその方法は、立場や身体の「力」を使って女を守るという極めて男性的なもので、「女性の味方」という立ち位置そのものに、優位な立場からの傲慢さが帯びている。

女性に対する接し方云々より前に、「女性は助けてあげる対象である」という「男らしさ」から降りなくては、真に平等にはなれないのではないかと感じた。


捜査の打ち切りから3年後。
ヨアンは判事と新人捜査官のナディアというふたりの女性と出会う。

「私は男だからとか女だからとか考えてない」
「罪を犯すのも捜査するのもほぼ男性って変ですよね」

これまで超男性優位社会の中で生きてきたヨアンは、女性を「弱い立場」であり「助ける対象」と考えていたと思うが、
フラットに、時には頼りながら彼女たちと仕事を進めていく中で、少しずつ「男らしさ」というものと決別できたのだろう。

ヨアンがマルソーに宛てた手紙の中ではナディアについても触れられていた。
その文面に滲んでいたのは彼女への期待と尊敬。クララの事件以前のヨアンには書けなかった文章なんじゃないかな。

マルソーは花の写真を送り、バンクをぐるぐる回るだけだったヨアンは公道を走り始めた。解放されたんだ。


適材適所や役割分担は合理的ではあるが、こと男女平等という観点だけで言えば、同じ空間で同じ仕事を重ねていくことがベストなのだと思う。

自分は平等性や多様性についてはよく考える方ではある。
でも、潜在的なところでは優位性を保っているに違いなく、ヨアンやマルソーと変わらないんだろうなと感じる。

男らしさや女らしさという言葉が普通に言えていた時代に育っている上、未だ男性優位な地球上で生活していたら、潜在意識を変えること自体が難儀。きっと自分が気づいていないだけで、態度に漏れ出ていることもあるのだろうと自覚をしている。

完全を目指すのは難しくとも、ヨアンのように公道を自転車で走る姿は見せていかないといけないんだよな。
イスケ

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