2024年1本目にこれを観た。元旦でも8割方埋まった客席で、上映中にあちこちの携帯からさざなみのように緊急地震警報が鳴り出した。「こわい」という声が聞こえ少し怖くなる。席を立って外へ出る人が3人ほどいた。やがて水平に回すようなゆっくりとした揺れが起きた。上映は止まることなく、金延幸子の歌が流れるシーンで相変わらず役所広司演ずる平山が日々の暮らしを訥々と重ねていた。
前情報のノイズが多くてそれ抜きで観られるのかなと心配だったが、やはり例の渋谷区デザイナーズトイレプロモmeets『東京画』ではあった。巧いことやったなという感じはあり、電通的なものの影を感じつつ観ていた。
「足るを知る」平山の生活を手持ちカメラで追う密着ドキュメンタリー的な撮り方もあり、一定のテンポで編集される生活の繰り返しはアケルマン『ジャンヌ・ディエルマン』を思い出さずにはいられないが、彼の生活はいかにも気高い。平山の妹役 麻生祐未の登場により、自ら選んでこの生活、清貧を実践していることがわかる。平山が公園で舞踏を舞うホームレス役の田中泯をいつも気にしつつ、その境地にまで至りたいと思っているかはわからない。
彼の足るを知る生活は、さまざまなアトリビュートともいうべき「良い趣味」を纏っている。オリンパスのコンパクトフィルムカメラで撮る白黒写真(それを現像に出すDPE屋の主人は柴田元幸だった)、神社の古木から頂いた小さな紅葉の苗木、古本屋で求める文庫本、ヴェンダース好みのルー・リードやヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどのカセットテープ、常連となっている浅草駅地下街の一杯飲み屋と石川さゆりが営む小料理屋。いかにも「良い趣味」。その良い趣味が鎧に見えなくもない。場面緘黙的な彼がまともに喋るのはニコという姪ほか、石川さゆりなど、自分の世界に入れてもいいと思った人だけのよう。ニコという名前も平山がつけたのかもしれない。彼の方から全てを選んでいる。鎧を纏った上での高みの見物。それができない状況と対峙したときにイライラしたりする。
「アヤ」という名前も「平山」とともに小津監督が好んで使った役名だ。本作で小津的なものを想起したのはこのアヤとのシーンだろう。アオイヤマダ演ずるアヤがパティ・スミスのカセットテープを気に入り、唐突に平山の頬にチュッとする。 『晩春』で月丘夢路演ずるアヤも笠智衆の平山のおでこにチュッとした。『麦秋』の淡島千景もアヤだった。原節子演ずる「紀子」の自由闊達な友人に冠される役名。相手は斎藤達雄で役名も違うが『淑女は何を忘れたか』の桑野通子もこの原型といえる。
石川さゆりがあがた森魚のギターで歌う『朝日のあたる家』のシーンが素晴らしかった。石川さゆりがママだったら客みんな惚れるでしょというくらい魅力的で、できればワンコーラス最後まで入れてほしかった。そこに役所広司が目を閉じて聴き入るアップのインサートは無いほうがよかった。石川さゆりのドキュメンタリーのように観たかった。
それと隅田川岸にいる役所広司と三浦友和が共にピース吸って盛大に咳込むシーンも好かった。墨東の町の灯りと隅田川の波の煌めき、咳込む男二人の背中のロングショット、なんともいえず涙出た。
平山の部屋で灯りをともすところと、夜の窓から寒色の光が見えるショットは美しいが、カーテン閉めないと明るくて眠れないんじゃない?