レインウォッチャー

PERFECT DAYSのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
4.0
スカイツリーのお膝元で起床し、渋谷エリアのトイレ掃除へ。日々、東京の東西を往復する中年男・平山(役所広司)の規則正しく慎ましやかな生活。
彼のルーティーンの中には読書が含まれ、劇中では何冊かのタイトルが確認できる。その代表が、『野生の棕櫚』と『木』だ。この2冊と映画は、どのように反響しあっているのか…をすこしだけ考えてみたいと思った。


■『野生の棕櫚』と『PERFECT DAYS』

W・フォークナーによる『野生の棕櫚』は、1920~30年代のアメリカ南部(※1)を舞台にした長編小説。

まず語るべきはその特異な構成で、二つの異なる物語が交互に語られながら進むのだけれど、最後まで直接交差することがない。一つは不倫に端を発したある男女の退廃的な迷走の日々、もう一つはミシシッピ河(※2)の大洪水に巻き込まれた囚人と女の漂流記だ。
登場人物も時制も異なりつつ、出産と堕胎・生と死のような対称性や、男女の先の見えない彷徨、決定的な愛情を得る前に通り過ぎてしまったような関係性といった共通点があり、行の外で確かに呼応していると感じさせる、奇妙で稀有な小説だと思う。

この《余白のポリフォニー》とでも呼びたくなる感覚は、『PERFECT DAYS』に通じるものがある。
平山の生活は穏やかで、かつ『ウォールデン』のような森の孤独と共にあるけれど、映画が進むにつれて「物語は孤立はし得ない」ことがわかってくる。寡黙な彼が中心に居ることで、彼が見つめたり関わったりする人々の「語られない物語」が浮かび上がるのだ。

公園のホームレス(田中泯)が歩んできた半生。
パティ・スミスを聴いて、アヤ(アオイヤマダ)が涙する理由。
自堕落に見えたタカシ(柄本時生)と、彼になつく少年のこれから。
トイレですれ違うだけの人々が過ごす日常。

これらはいずれも、映画の中で語られない物語だ。しかし、確かに「在る」。『野生の棕櫚』で並走する2本と同様、平山の物語と直接は交差せずともどこかを流れている。そしていつか、支流が引き寄せられて結びつくように巡り合うかもしれない。

このイメージをどこか後押しするように思えるのが、音、特に葉音である。
平山は度々目線を上に向け、頭上の木々の葉が風に揺れる音に耳を澄ます。また、夜の夢でも、その日に出会った印象的な人々の表情と共に、やはり葉ずれの音がさやさやと聴こえている。まるで、彼らの物語がどこか彼方をひっそりと流れる音のようだ。平山は、夢を通してしばしその囁きをとらえる。

『野生の棕櫚』でも、夜の向こうで鳴り続ける棕櫚(=ヤシ)の葉音が描写されている。主人公がその音の源泉、揺れる棕櫚を直接視認することはないのだけれど、確かにどこかで鳴っている。
それはつきまとう死の気配、不吉の兆しのようでもあると同時に、意識を現世に繋ぎ止めるものとも思える。平山もまた、夢という生と死の境界で(彼の夢はモノクロだ)同じ音を聴いていたのかもしれない。

そして、平山が目を醒ますときも音と共にある。葉音によく似た、近所の女性が窓の外をホウキで掃く音だ。
平山と彼女が直接言葉を交わすことはなく、彼女はまさか自分のホウキが平山の目覚ましの役割をしているとは夢にも思っていないだろう。だが、彼女と平山の物語は音という小さな一点で繋がっているのだ。


■『木』と『PERFECT DAYS』

『木』は、幸田文が樹木へのたゆまぬ敬意・思慕・畏怖・愛着をあらわした怒涛の《推し活》エッセイ。
松、檜、杉…晩年近くにおいても、木のあるところ津々浦々へ足を運び、林業や木工関連の職人から謙虚に学び、木を観察し、心を配り、愛でる。趣味や酔狂を超えた、巡礼に近い態度がここにはある。

本文の中で、「樹木とつきあえる人はそれぞれにやさしさをもっている。」と記しているが、平山もまた「樹木とつきあえる人」である。昼食をとる神社には《友達の木》がいるし、頭上の葉の写真を撮り貯め、雑草のような苗木を持ち帰っては専用の部屋で盆栽のように育てていたりする。

しかし、この映画はそんな平山の生活を殊更に美化したり、彼を仙人のような超越者として扱ってはいない。後半になるにつれ、彼の穏やかだった湖面にも波が立つ。そのとき、彼は人並みに動揺し、怒り、泣きもする。彼にもまた語られない物語があって、おそらく何かから《逃げて》今の生き方を選んだのではないか…という側面に気付かされる。

『木』においても、著者は木を盲目的に礼賛してばかりではない。時には汚らしく見える樹皮に対して文句をつけるし、立木だけではなく材木としての木にも目を向け、木の死とは何か?までを考察している。
幸田文が木々を観たのと同じ目線で、この映画は(そして映画というフィルタを借りたわたしたちは)平山の姿を観ている(観るべき?)、ともいえるだろう。


■『野生の棕櫚』と『木』

映画を通して、生まれた国も時代も異なる二つの小説がまったく思いがけず出会う。木漏れ日、木、棕櫚。「繋がってるようで繋がってない」物語たち。
途端に新しい側面が顔を出して、作品も、それに触れる者の表情も、生き生きとしてくる。これはまるで、映画という媒体が持つ本質的な能力そのものではないだろうか。

W・ヴェンダース監督は、かつて『東京画』なるドキュメンタリー作品でも東京を訪れている。そのときは、バブル期に差し掛からんとする頃の風景を目にして、敬愛する小津安二郎の日本が喪われたことを嘆いてばかりのようだった。
しかしそれから40年弱、この国も変わったし、ヴェンダースも変わった。今作では、『東京画』のように疎外感に満ちた異邦人の目線ではなく、まるで日本映画のように自然な撮り方で、内部からの目線に寄り添っているように思う。今作にもまた小津イズムを感じる瞬間はあるけれど、彼なりの新しい距離感(※3)を獲得したようだ。

『木』のような視線で、『野生の棕櫚』のような多層的・交響楽的な物語を描き、映画の外までも想像させる。
至極当たり前のことを書くけれど、映画で語られる物語より、語られない物語のほうが圧倒的に多い。しかし、語らないことによって語られることもあるのだ、とあらためて気付かされる。この映画を観に集まったわたしたち一人一人が物語を持っているように。

わたしたちは別々の目でこの映画を観て、つまりは違った映画がそれぞれに存在し、持ち帰って夢の一部にする。誰かと映画について言葉を交わせば、そこでまた新しい物語が生まれる。この作品は、そんな日々のまるごとを《映画》と呼び、愛しているのかもしれない。


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『Pearl』のラストと今作のそれを対面に向かい合わせると、その中間に入道雲ができるといわれている。

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※1:近年、この時代周辺のアメリカを裏から刺す《アンチ西部劇》的な映画作品は多い。K・ライカートの『ミークス・カットオフ』『ファースト・カウ』、J・カンピオンの『パワー・オブ・ザ・ドッグ』、そして勿論M・スコセッシの『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』。これら作品がもつゴシックで時に魔術的なムードは、まさしくフォークナーが書き続けた世界。同じ時代の人でありながら、既に深い批判意識を持っていたことには驚かされる。

※2:映画でたびたび映される隅田川。この川を辿ればやがては海に行き着き、その先にはミシシッピ河がある。

※3:低いカメラ位置にこだわり続けた小津映画。対してか、今作の平山の視線は、幾度となく「上へ」向かう。