犬たろ

哀れなるものたちの犬たろのネタバレレビュー・内容・結末

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

猥談を嫌悪する人は、私の拙い感想文を読むべからず、と忠告しておきます。きっと不快感に苛まれることでしょう──。



私はその人のことを大して知りませんが、マザー・テレサという聖人がこんなことを言ったらしいです。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

こういう言葉を見聞きした瞬間、不思議と目を剥き、背筋がぴんと伸びるのはなぜでしょう。

調べてみると、深く感動して忘れないことを【肝銘】と呼ぶらしいです。肝、内臓、銘、名のある上等なもの、ふむふむ。

感動とは何なのでしょう。ゾクゾクするこれはどこから来るのでしょう。言葉というものは、身体というものは、実に興味深いですね。

さて、前置きはこれぐらいにして、思ったこと感じたこと、体調に表れた異変に至るまで、ここにしたためていこうと思います。最後までお付き合いいただければ幸いです。



今作で描かれるセックス描写の多さが独り歩きし、頻りに取り沙汰されるのを目にしますが、私自身、原作本やサウンドトラック含めて今作に良くも悪しくも魅了され、心奪われたのちに叩き起こされた者の一人だと告白します。

改めてセックスの存在意義について、感情やホルモンに支配されず考えてみたとき(鑑賞後しばらくバイオリズムが狂わされたのは言うまでもなく)、今作を“地獄”といわれる理由が、まさに今現在“籠の中”に囚われている状態を物語っているのだろうと思ったのです。

個々の是非を問うよりも先に、“教育”という名の下に社会規範を意識しなければならない生き方を強いられてきたあまり、個々の是非は問わないことに対して心のどこかでは疑問に思いながらも、「それに従う方が楽だから」という無難で卑下する軽い思考にしがみついてきた結果、幸か不幸か、生きるものたちの心の痛みや苦しみであったり、自由意志やそれに伴う責任には鈍感になるばかり。

それにもまして、単純な娯楽として、他を責め立てる攻撃を繰り返し、力や数で他者をねじ伏せる者が多くを占める社会ができあがりました。

しかし、蓋を開けてみた実情は、一見複雑に思えるものの、案外単純なものかもしれません。その一つとして、「人は清浄無垢でなければならない」という、傲慢な思想の雁字搦めになっているだけだったりします。

そして、己の内に秘めた意思や好奇心は、他の誰かや何か、はたまた己自身から無下に扱われ、肉体や精神のみならず、過去や未来までもが束縛、軟禁されるのです。

私は思います。とどのつまり、生きる上で何かと付きまとう心配や悩みなどが一切なくなる(その時だけはどこかに消える)ことからして、セックスというものは“地獄”ではなく“極楽”の間違いだろうと上書きしたくなるのですが、これは残念ながら私自身の浅はかさ、愚かさからくるものでもあるのです。

さすが、ヨルゴス・ランティモス監督。皮肉が効いてます。

誰しもが皆等しく母親ないし女から生まれてきます。その傍らには、はたまたどこかには、必ず父親ないし男がいます。女と男がセックスをして作られたものが、私であり、あなたであるというこの事実を無下に扱うことは、今の私にはできません。

今作の主人公ベラ・バクスター(エマ・ストーン)は、抑圧された個々の人間が持つ知の尊さ、好奇心や学びの素晴らしさ、世界の残酷さと美しさの解放者であり、新時代の旗手となり得る人であり、彼女のあとをついて歩けば安寧は約束されるとさえ思えてきます。

“極上”という言葉がこれほど当てはまる作品を、私は他に知りません。

ヨルゴス・ランティモス監督がこれまで描いてきた稀有な人間たちの灰汁が強い残酷的世界観を、オスカー女優エマ・ストーンの天真爛漫な奔放さ、陽気さによってものの見事に中和するだけに留まらず、彼女は完全に超越していました。

エマ・ストーンの存在ないし魅力なくして今作を語ることなど、全く以てできません。今作のチラシやポスター、パンフレットの表紙を飾るベラの顔面に塗りたくられた“三つの色”がそれを象徴しています。

右瞼には青、左瞼には紫、そして唇には赤、その三色が無造作に彩るそれは、人間が人間たる日常生活を営む上で大事な“三つの性”を表しているのでしょう。

青、それは理性。

マナーやモラルを身につければ、心の友が一人二人と増えていきます。心赴くままに生きることも素敵ではありますが、他者を思いやり、時と場所を考えて言動を選ぶことも大事であり、時には羽目を外すことはあっても、根っからのお馬鹿さんなのとは訳が違う。感情に支配されないためにも、理性は欠かせません。

マックス・マッキャンドルス(ラミー・ユセフ)との出会いがそうであるように。

紫、それは知性。

“三人寄れば文殊の知恵”とは言い得て妙で、一人の力ではどうにもならないことが世の中にはあります。知恵とは経験と反省の交響曲だと誰かは云います。時には友の力を頼り、違う思想や価値観、環境の差異を知り、見聞を広めて人生に深みを出すためにも、知性は欠かせません。

ゴッドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)との出会いがそうであるように。

赤、それは感性。

生と死は表裏一体。食べることは、即ち生きることです。外界の強烈な刺激の数々を目の当たりにした結果、残酷で美しいこの世界に絶望と希望を見出し、喉が枯れるほど叫びたくなることがあります。そこをぐっと堪えて飲み込み、人の心の痛みや苦しみに寄り添い、己の飽くなき好奇心を満たし、苦難を乗り越え、未来に向けて歩みを進めていくためにも、感性は欠かせません。

ダンカン・ウェダバーン(マーク・ラファロ)との出会いがそうであるように。

東京は渋谷の一角に、CAFE:MONOCHROME(カフェ:モノクローム)という無機質な隠れ家的カフェがあります。ベラの特製ストーンコースター付スイーツセットを数量限定で販売されると知った私は、鑑賞後にお店を訪ねました。“エマ・ストーンのストーンコースター”とは、実に洒落が効いてます。

雪積もる地面に跪くダンカンが、髪をむしり取り、天を仰ぎながらベラを求めて嘆くように喚いた姿を見て、私はその瞬間だけ彼に共感するばかりか、不覚にも自己投影してしまいました。

「ベラ〜!」天を仰ぐダンカン。その傍らに私も跪く。「オスカーをベラの手に〜!」私も彼と共に天を仰ぎ、嘆くように喚く。

大胆かつ不敵、挑発的で能動的、抑圧からの解放、官能的歓喜の雄叫びを皆で唱えよう。

運も味方につけて悲劇から蘇り、余計な邪魔立てする者にはすぐさま牙を剥き、迷うことなく飽くなき好奇心の舵を切り、心赴くままに突き進み、学びの精神で物事に取り組み、身が疼けば扇情に酔い痴れ、知性がくすぐられれば瞬時に吸収し、たくましく成長していく、喜劇に感激、ベラ・バクスター万歳である。

セックスは基本的人権の一つであり、尊厳は何人にも脅かされてはなりません。

鳴りを潜めていろと虐げられた女の飽くなき好奇心に比例するように湧き立つ渇望を、今作ほど大胆かつ不敵に、見る者が羨むほど色彩豊かに描きながら、喩えそれが一時であろうとあらゆる煩悩をかき消してくれる“熱烈ジャンプ”、もといセックスは素晴らしいものであると熱弁を振るう作品を、私は他に知りません。

息が詰まるほどの我慢を強いられた末に自ら命を絶ち、運良く天才外科医ゴッドウィン・バクスターに拾われて蘇り、新たな命を芽吹くように生まれ変わったベラのあどけない婀娜っぽさに現を抜かした142分間は、あっという間に過ぎ去りました。

私はスクリーンの前で静座しながら、彼女の奔放さや実直さに時折頭を掻き、無垢なる魂の成長過程をひたすら見守れる喜びを知りつつ、同時に男の脆さ儚さ、何より不甲斐なさを思い知らされるように、完膚なきまで打ちのめされた結果、私のバイオリズム(ホルモンバランス)がものの見事に狂わされてしまいました。

鑑賞後の夜、眠いはずが夜明け前には目が覚め、それから眠ることができなくなってしまい、ふと気づけば身は火照り疼いてばかりいるのに勃起せず、独り遊びに耽ることは叶いませんでした。

私の学生時代を思い返してみれば、クラスでいつも成績上位なのは女の子で、学級委員長や生徒会長も女の子で、いじめられっ子を庇うのも、正義を貫くのも、お洒落なのも、好きな人に告白するのも女の子からで、はたまた私の家系が代々母子家庭という環境で育ってきたからなのか、社会で活躍する女性を知る度に応援せずにはいられないのです。

ベラを演じたエマ・ストーンは、とある表彰式でこう語っていました。

「この作品はラブコメだと思っています。他の誰かではなく、彼女自身の人生に恋をするという点で、ラブコメなのです。彼女は人生の良いことも悪いことも同等に受け入れます。これに影響を受け、私自身も人生の見方が変わりました。どんな物事も大切であり、全てに意味があるのだと教えてくれました」

はたまた別のところの表彰式ではこう語っていました。

「彼女を演じることで、私たちに課せられた恥や、社会的なものなど、多くのことを学ぶことができました。そして、私はまだその課題に向き合っています。私は美術や批評のことはよくわかりませんが、批評家の方々にはとても感謝しています。でも、私はみなさんからどう思われても気にしない方法を学んでいるところです」

これらを高らかに宣言できるエマ・ストーンと私は同世代であるということだけでも、実に誇らしく思えてきます。

今作劇中、ベラはダンカンと激しい情事を交わした果てにつぶやきます。

「なぜみんな、いつもこれをしないの?」

男は女に平伏すしか成す術がない、その明らかな事実を認めざるを得ない。もっといえば、一刻も早く皆が公に認めるべきである、と私は思っています。

歓喜に喘ぐ“熱烈ジャンプ”を提供するのは、男の人生における最も重く課せられた使命であり、汗水垂らして精を出すのが、男の果たすべき大きな役目なのです。

持てる技術ないし愚息を駆使し、大胆かつ繊細な女の知性や感性を精一杯くすぐること叶えば、恍惚感で満ち足りる女の官能的な好奇心を前にして、もはや男はぐうの音も出ません。

男は一度射精すれば、回復するのに少なくとも一時間は要する、その不甲斐なさこそ悪しき憎むべきものなのです。

後背位や背面立位、ロールスロイス、はたまた窓の月ないし側位だと、何とか対等に渡り合うことはできるものの、正常位や騎乗位になれば、端から負け戦です。子宮口で我が愚息の亀頭を激しく追い打ちをかけ、瞬時に降伏の白旗を振ってしまう私が脳内を過ぎります。

ヨルゴス・ランティモス監督だからこそ描けると言っても過言ではない、人間の利己的な愚かさ、皮肉の裏に見え隠れする哀れさ滑稽さ、肉体の脆さ儚さ、そして欲望や好奇心みなぎる活力が痛み苦しみを和らげ癒す人間の奥深い素晴らしさに、私は問答無用で酔い痴れました。

エンドロールの一番最後、題名『POOR THINGS』の背景に現れたそれは、大脳の皺か、それとも膣の襞か。

奇天烈な愛であったとしても、そこにしっかりと愛が根づいているのなら、必ず受け継がれるそれは、きっと自然の成り行きなのでしょう。これを人は【奇跡】と呼ぶらしいです。生き物とは、実に不思議ですね。

改めて思います。

今作を見届けて、気まずさなど全く以て皆無。セックスを“地獄”と見なすことなかれ。私に言わせれば、今作は歴としたデートムービーであり、しかと見届けたのちに身も心も激しくぶつけ合いながら、互いの知性や感性、好奇心で研磨し高め合うことができる、そんなカップルを私は心の底から支持し、応援したい質なのです。

「冒険し、砂糖と暴力を知った」とベラは語ります。

酸いも甘いも噛み分けて、哀愁の果てに辿り着いた稀有な理性と知性と感性が混在する安寧の地にて、愛する家族や仲間とともに慎ましい暮らしを営みながら、お天道様のもと本を読み漁り、ベラは今日も微笑みを振りかざす。

今現在、何らかの要因で肩身が狭く、息が詰まる思いに苛まれている人は、今作の世界観に全身全霊を集中させ、是が非でも細胞レベルで身も心も委ねてもらいたい。

仕事や勉強の要領がなかなか得られず、上司や同僚、クラスメイトから、まるで汚いものでも見るように冷たくあしらわれたとしても、そいつが世界の全てじゃあるまいし。

誰かや何かから除け者扱いされ、まるで永遠にすら感じられるほど長いあいだ冷や飯を食わされるような惨い仕打ちを受けたとしても、そこが世界の終わりじゃあるまいし。

これが私の生きる道。

汗水を流して働き、心躍るものを知り学び、美味しい飯に舌鼓を打ち、身の毛がよだつほどの情事を交わし、健やかな思いで床に就く。

命短し恋せよ籠の中の乙女。

p.s.

今作の最たる真髄。それは、見る者の感性を熱く激しく揺さぶり、脳天には電流を施すように痺れるほどの刺激を繰り返せば、死にかけている好奇心と他を尊重する姿勢を叩き起こし、身も心も恍惚感で溢れるほどの状態に陥らせるところにある。

完膚なきまで打ちのめされた結果、己の内から湧き立つ欲望と向き合わざるを得ない状況に追い込まれる。今作のように、思わず身悶えして現を抜かすほど素晴らしい映画を鑑賞したのちに交わす“熱烈ジャンプ”は、文字どおり幸せになれる極楽なものであると強く言い残しておきたい。

私の魂は、精子はまだ死んでいないと思いたい。私の“熱烈ジャンプ”もダンカンのそれと同じ様相を呈するゆえに、今作を見届けた直後に思ったこと。それは、私の“熱烈ジャンプ”ないし勃起した愚息の尺度や形は、女史の快楽を満たすことができるものなのだろうか。採点を求めたい。何なら批評されたい。それを知るのは怖い。でも無性に知りたいと気を揉んだ。
犬たろ

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