くまちゃん

映画ドラえもん のび太の地球交響楽(シンフォニー)のくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

3.4

このレビューはネタバレを含みます

文字のない文化はあっても音楽のない文化はないそうだ。今から4万年前、旧石器時代に宇宙からムシーカ人の赤ん坊が飛来する。古代音楽ではすでに音程と音階があったとされており、石器時代に遡る冒頭は朝ドラ「エール」を彷彿とする。壁画の白鳥が歴史という膨大な時間を優雅に羽ばたき華麗に時代を乗り越えるオープニングは世界最古の笛である「白鳥の骨の笛」を象徴したものでドラえもんらしからぬ滋味深さがある。
この「白鳥の骨の笛」とは創作だがモデルが存在する。現実に世界最古の笛とされているのは3万6千年前の現生人類が使用したとされる骨の笛である。またイチイの木や、タンチョウの骨でできた笛も出土している。

小学校では子供たちが音楽会の練習に励んでいた。思うようにリコーダーが吹けず間の抜けた音しか出せないのび太は周囲に笑われる。スネ夫の言うのの音というのはいい得て妙で、実にのび太の奏でる音を正確に表現した言葉だ。
帰宅後、ドラえもんの「あらかじめ日記」の存在を知ったのび太は翌日音楽がなかったと書き込む。あらかじめ日記とは書き込んだ内容が現実になる未来日記である。音楽の授業はなかった。しかし、のび太の安易な言葉選びによって世界から音楽そのものが消えしまう。ドラえもんの迅速な対応により事なきを得たが、短時間音楽が消滅しただけで世界は困惑していた。多くの人の心に染み渡る癒やしそのものが失くなったのだから。この状態が続けば戦争の引き金になったかもしれない。

バカにされたくない。ドラえもんの道具は頼れない。それならば練習するしかない。一人で地道にのの音と向き合うのび太。上手く吹けたら楽しいだろうか?美しい音色が奏でられたら気持ちいいだろうか。調子外れの不快な音を孤独に吹き鳴らすのは心が落ち込む。もう帰ろうか。そう思った時不思議な少女と出会った。彼女は日本語を話せない様子だったがリコーダーを吹いてほしいとせがんでることはわかった。下手なのは自認している。それでも望まれればやってあげたくなるのがのび太の優しさ。その少女は笑っていた。でもバカにしている感じとも違う気がする。リコーダーの不安定な音色と共にその少女はうたい始める。それは不思議な体験だった。まるで全てを包み込むような叙情溢れる歌声。のび太のリコーダーと重なっても不協和音にならず、むしろリコーダーのメロディーが空気中に弾けて反響している錯覚さえ覚える。楽しい。気持ちいい。この感覚は初めてだった。
気がつくとその少女は消えていた。今のは夢だったのか?

少女との出逢いが夢ではなかった事はすぐにわかった。みんなで音楽会の練習に励んでいた時また現れたからだ。そのセッションにしずかもスネ夫もジャイアンも魅了された。言葉はわからなくても心に響いたと感動するジャイアンに「心あったっけ?」と疑問を呈するスネ夫の図が微笑ましい。「ロボット王国」以降、スネ夫はジャイアンに対して毒舌が増している。

その日子供たちに招待状が届いた。
そこには音楽室に来るように認められていた。なぜ異国の言語を操る謎の少女からの招待状が日本語で書かれていたのか、夜間の学校にどうやって侵入できたのか、ある程度説明できる場面を挿入しておく必要はあるだろう。例えばムシーカのロボットチャペックは初めから日本語を話していたため招待状は彼が用意したものだろうか。学校は通常施錠されているため通り抜けフープで侵入したのかもしれない。なんの変哲もない見慣れた音楽室。少年少女たちは、ここから規格外の大冒険へと繰り出すのだ。

不思議な膜に覆われ生身で宇宙へ到達した先にあったのは音をエネルギーとする人口建造物、ファーレの殿堂。今井一暁監督はコロナ禍で子供が家で歌っていた状況をヒントに今作のアイデアを閃いたという。音は目に見えない。目に見えないものを映像化するのは難しい。だからこそエネルギー源として可視化させる設定が生まれた。
運命の赤い糸に導かれ、スネ夫はヴァイオリン、しずかはボンゴ、ジャイアンはチューバ、そしてのび太はリコーダーを手にする。ファーレの殿堂では深刻なエネルギーの枯渇に悩まされていた。殿堂の復興。それがチャペックの願い。達人の域に達した演奏家ヴィルトゥオーソ。それはのび太たちの事であり招聘された理由であった。

勘の良い子供たちはそれぞれのコツを掴み、順調に演奏技術が上達していく。
ただのび太だけは調子のはずれたのの音に苦戦する。やっぱり楽器なんて、音楽なんて、嫌いだ。

タキレンは悲嘆に暮れ頬を涙で濡らしていた。天候はそれに呼応し雨の勢いが増していく。晴天にしたくばタキレンの涙を止めるしかない。チャペックが作曲した譜面を元に付け焼き刃のセッション。
明るく朗らかな曲調にタキレンの心はさらに落ち込んでいく。だがのび太のリコーダーはどこかウェットで哀愁を纏っている。前向きな曲は必ずしも元気を与えるわけではない。時には落ち込む心に寄り添う音も必要なのだ。タキレンの顔にもう涙はなかった。
音楽で誰かを癒やす。その初めての経験は一人の少年の価値観を大きく揺さぶった。もう少し上達したい。そう願うのび太の音楽家ライセンスは表示がビギナーからアマチュアへと変わった。音楽とは音を楽しむと書く。歌唱力の高さや卓越した演奏技術など二の次だ。興味を持って楽しむ。それが上達への近道。音楽家にとって一番の基礎で大切なこと。

チャペックの師匠、マエストロヴェントーは朽ちていた。当たり前だ。4万年も前の話だ。稼働している方がおかしい。だがヴェントーは眼を見開き、ペンを握りしめ最期の最期まで作曲を継続していた。音楽家であろうとした。その矜持は現代に生きる全てのアーティストが見習わなければならない。誰よりもヴェントーを慕い、崇拝し、目標としていたチャペックは膝から崩れ落ちる。救えなくて申し訳ないと。間に合わなくて申し訳ないと。だがその涙を優しく拭き取るハンカチのようにドラえもんは胸を叩く。諦めるのはまだ早い。ドラえもんは抜けた所のあるロボットだが幅広い知識と、ぺったんハンドの形状からは想像できないハイレベルな技術力を持ち、子供たちの引率者でありなから超優秀な技術者でもある。
汗を流しながら新しい友人のために一肌脱ぐドラえもんはいつにもまして男気がある。タイムふろしきを使えば早かったのでは?という疑問は野暮であろう。しかし、他のひみつ道具が使用不可のため自ら修理する必要があったという手段を選択する上での合理的過程を取り入れる事はできたのではないか。過去作を見てもあるひみつ道具の存在がストーリーを簡素化してしまうため破損やメンテナンス、またはドラえもんそのものの故障といった理由で苦労を強いられることも多かった。ならせめて冒頭でタイムふろしきが使用できなくなる描写を少し挿し挟むだけでドラえもんの苦労がよりドラマチックになるのではないだろうか。

音楽は平和を象徴するが、それを武器として戦うとその本質に反し矛盾が生じる。そこで得体のしれない生命体ノイズが投入された。光に対する闇。ノイズは音楽を嫌う。だが音が切れた隙を狙ってやってくる。地球ではあらかじめ日記を使用したのび太によって1日だけ音楽が消滅した日が存在する。そこをノイズが侵入してきたのだ。

ミッカには双子の妹がいた。ミッカはコールドスリープにかけられ、妹は脱出ポットにて宇宙空間へ放たれる。いつか、ムシーカ星を、ファーレの殿堂を復興する願いを込めて。地球へ降り立った妹は音楽と共に生き、愛を見つけ、子孫を繁栄し、その血族は世界的な歌姫ミーナとして活躍している。まさにミーナは音楽の歴史そのものだ。

ノイズは力をつけ、ファーレの殿堂と地球を飲み込む勢いで膨張を続ける。打ち倒すには音楽を奏で続けるしかない。
ノイズの猛攻でのび太は宇宙へと放り出される。音は空気の振動で伝わる。空気のない宇宙で音は聞こえない。絶対的な孤独。なぜのび太は生身で宇宙にいられるのかはわからないが絶望は伝わった。連綿と続く暗黒。「ゼロ・グラビティ」を想起させる虚無。
ムシーカの笛は破損し、特定の音を発することができない。ここでもタイムふろしきを使えばいいのでは?と疑問符がつく。ただ、ムシーカの笛に足りない音をのの音が補う展開はのび太がずっと邪険にされてきただけに感動を誘う。
のび太は技術不足で演奏での調和が取れず孤独だった。ミッカは天使のような歌声を持つが仲間がおらず孤独だった。
ミッカは言う。みんなで音楽するのは楽しいと。その無邪気な言葉が音楽の全てを物語っている。音楽の魅力に気がついたのび太、音楽をさらに好きになったミッカ。孤独を知る者同士の絆は強い。

音楽という題材もさることながら、宇宙と地球、異なった2つの空間での同時攻撃で圧倒的脅威に立ち向かう構図が「ONE PIECE filmRED」を彷彿とさせる。

ミッカはのび太をのほほんメガネと呼んでいたが、ラストでのび太お兄ちゃんと名前を呼ぶ。通常ここは感動を誘う王道的場面だが、ミッカがのび太を名前で呼んだのは初めてではない。一度のび太と何気なく呼んでいた。最後にこの展開を持ってくるならなぜのほほんメガネで統一しておかなかったのか。

今作はドラえもんだから、子供向けだからでは許容できない部分が目立つ。藤子・F・不二雄生誕90周年というのならもう少し丁寧に作り込むべきだった。何かが惜しい。これを期に同時上映の短編やドラえもんズの復活をぜひ検討していただきたい。100周年にはどんな作品が仕上がるのか。一ファンとして10年後、新キャストが旧キャストのキャリアを越えた先を今から期待したい。
くまちゃん

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