くまちゃん

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章のくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

3.8

このレビューはネタバレを含みます

今作を目にした時多くの者がこう思う。タイトルが長い、言いづらい、覚えづらい。なぜ「おやすみプンプン」みたいにしてくれなかったのかと。だが幾度か反復し、舌筋を鍛錬する事でこのタイトルをスムーズに発音できた時、なんとも言えない快感が訪れる。タイトル含め、作中登場する単語、固有名詞などの独特のワードセンスは唯一無二であり、日本のマンガ文化を独自路線で牽引するこの中毒性こそが浅野いにおの魅力と言えるだろう。

今作には「おやすみプンプン」のようなコラージュ的な実験的手法は見られず、その代わり3DCGを積極的に取り入れ、凰蘭の部屋や母艦、他者への記憶干渉などを描く際に利用している。もともと浅野いにおはセリフではなく画で見せる映像的な作品が多く、一コマ一コマの情報量が多い。その緻密に描き込まれた背景の中に存在する漫画的キャラクター。特に端役に関しては、愛らしい主役たちと異なり水木しげるや藤子・F・不二雄など、昭和の漫画独特の滑稽さを想起させる造形がなされている。原作における立体的で豪奢な背景と二次元的なキャラクターの共演はプンプンのようなシュールレアリスムを感じていたのだが、アニメ化されたことで画面に感じる違和感が良くも悪くも払拭されてしまった。あのブサ犬でさえ生命を感じる。引き算の文化である漫画であえて情報過多に描き、漫画では描けない情報盛り込むアニメーションで多くの情報を削られる。これは皮肉としか言いようがないが、あれほどのボリュームの原作を4時間の映画にまとめる方が難しいのだ。せめて2クールのTVアニメか配信にするべきだったのではと今更思う。

原作では母艦が発する音はひらがなを加工したような独特の言葉で表現されている。それを映像ではどう見せるのか。
薄っすらと誇張を最小限にとどめた形で擬似ひらがなが漂っていた。他の作品ならこの演出は微妙な所だろう。漫画での音の表現をそのまま映像に移し替える事は制作陣の怠慢であり映像にする必要がなくなってしまうからだ。しかし、今作では「いそべやん」がいる。昭和漫画へのオマージュのおかげで、この音の表現、疑似ひらがなが「ドラえもん」のコエカタマリン的な様相を呈し、独創的な味のある演出となっている。

東京へ飛来した巨大な円盤。2014年の連載当初これは東日本大震災のメタファーだと感じられた。日本を襲った未曾有の悲劇からまだわずか4年しか経過しておらず、政府の進まぬ施策や原発、被災地への偏見などがまだ強く残っていた。
「君の名は。」や「シン・ゴジラ」の公開よりも早く、浅野いにおの発想力には脱帽したものだ。しかし、今見ると震災だけではなく、香港の反政府デモ、新型コロナウイルスの蔓延、安倍晋三銃撃事件、ロシアのウクライナ侵攻と当時、または未来に起こった出来事をも想起させる場面が多々見られる。歴史とは人間とはいつの世も醜くダサく、薄情で人ごとなのだと痛感させられた。

門出、凰蘭、キホ、亜衣、凛の5人は仲がいい。そのゆるくもブラックで辛辣なやりとりは地球の危機など忘れてしまいそうになる。ある日キホに恋人ができた。それ以来キホは少しずつ付き合いが悪くなる。恋人ができたての女子高校生など誰もがそうだろう。

門出と凰蘭、亜衣と凛は高校以前から親しかった。高校入学を期に2つのグループが交わり、キホが合流した。キホはどこかで疎外感を感じていた。彼女たちの過去に自分は存在していない。共有できる思い出などこの3年間しかない。それを埋めるため、いや違う。小比類巻を好きになったのは確かだろう。交際が始まって嬉しいこともあったのかもしれない。だが、小比類巻はネット民特有のアバウトな優生思想を持ち、陰謀論に呑まれ、国や未来を憂い、政治に関心を持たない人間を軽蔑していた。得体のしれない大きな障壁を見つめて側にいるキホを見ようとはしなかった。後に小比類巻はいつか迎えに行くとメッセージを送っているため彼もキホへの気持ちはあったのだろう。それでもキホの心は満たされない。彼女は孤独だった。
凰蘭たちと合流して思い知る。本当に大切なのは何か。これまでがどうとか、これからがどうとか、ツチノコがどうとか関係ない。大事なのは今。自分のためにドブみたいなドリンクバーを作ってくれる、何も言わず抱きしめてくれる、傷ついた心を優しく慰めてくれる友がいること。これ以上今の自分に何が必要だというのだ。あわよくば、一度はリア充へ離脱した自分のわがままが許されるのなら、みんなと一緒にこれからも多くの思い出を作りたい。
凰蘭にキモがられ、ウザがられながらも友情を謳歌するキホは問う。歩道橋の階段を降る尊い4つの背中に向かって。
「私たち、大丈夫だよね?」
その言葉は彼女たちには届かなかった。いや、届く必要がなかった。それはただの確認でしかない。自分は独りじゃないと自分に言い聞かせただけだ。振り返ったみんなの顔を見れば問いかける事自体野暮だったと気がついた。私たちは大丈夫。心で通じ合い皆がそう信じていた。確信があったわけではない。ただ漠然とこの青春は終わらない、そう思っていたのだ。悲劇が起きるあの日までは。

渋谷上空に出現した100m級の中型船は「歩仁七式」により撃墜された。開発チームによれば「歩仁」に100m超級の船を破壊する能力は備わっていない。しかし今の日本に「歩仁」を超える兵器は存在しなかった。時速15kmで進行する中型船が立入禁止区域外に出てしまう前に対処しなければならず、現場では混乱が生じた。その結果、一部を破損した中型船は武蔵野市に墜落し、数年ぶりに民間人の犠牲者がでた。その内の一人がキホだった。

クラスは悲しみに包まれていたが日常は続いていく。渡良瀬は気だるげにホームルームを進め、他のクラスの男子はスマホゲームと世間話に興じる。凰蘭でさえも遅刻しいつものハイテンションなノリは変わらない。いつもと変わらないはずなのにそれが今は門出にとって少し煩わしい。キホの事を言おうにも無邪気な顔を見ると言葉がでない。それでも伝えなければならない。帰り道中、凰蘭の振る舞いに耐えきれなくなった門出は声を張り上げる。珍しく、言葉が尖る。

キホちゃんがねっ、

「知ってるよっ!!」

凰蘭はキホの死を知っていた。遅刻してきたのは心を整理し友の前では明るく振る舞おうと散々涙を枯らしてきたからなのかもしれない。キホの死を認識しつつあえて明るく振る舞う凰蘭の姿は痛々しくも健気で彼女の繊細な精神と思いやりに満ちた優しい性格を象徴している。
彼女の言動に生じている無理、多くの者はこのアイロニーを見抜くだろう。しかし、それでも凰蘭の言葉には胸を打たれる。それは普段から本音を隠しふざけてばかりいる彼女が感情を剥き出し吐き出した瞬間だからだ。わずかに本音を隠そうとする、背中越しというのが凰蘭らしくもあり浅野いにおの構図の力でもある。
残された親友たちは仲良く手を繋ぎ帰路につく。誰も欠けてはならない。一緒にいよう。いつも通り振る舞おう。そう誓いあった彼女たちの背中は逞しくもあり儚げでもあった。

小比類巻はただのネット社会の住人から、侵略者への殲滅行動を起こすことで過激派の危険因子として現実社会に進出を果たした。キホと別れた後、門出の前に姿を現した彼は別人のように変わり果てていた。前髪が伸びたというレベルではなく、佇まいが狂気を帯びていたのだ。
元々小比類巻はネットや芸能人の言葉に影響されやすかった。小型船の墜落によって逃走する侵略者を目撃したことが彼を変えてしまった。大多数が知らない事実を知ったことで陰謀論に傾倒していったのだ。その表層的な妄信は現実を知らず、理屈だけの青いものだ。だからキホの魂の叫びには絶句し言い返せなかった。しかし、今の小比類巻は少し違った。侵略者狩りを繰り返し、後に強硬派の中でも特に重要な存在として君臨していくこととなる。現実を見て、暗部を知り、知識と経験に裏打ちされた理論武装、それは彼の優生思想をさらに増幅させていた。声を演じるのは内山昂輝だが、業界内には思想強めの陰のある青少年は内山昂輝をキャスティングしようという暗黙の協定でもあるのだろうか。それほど内山昂輝の配役には偏りがあり過ぎる気がする。

門出と凰蘭の友情の起源は小学生まで遡る。門出は転校生だ。多感な少年少女たちは新しいものを受け入れるか拒絶するか極端な二択しかない。門出は拒絶された。門出という珍しい名前も影響し「出門(デーモン)」と揶揄され、イジメの対象となった。凰蘭はそんな門出に心を痛めていた。だが手を差し伸べることはできない。優しいだけでは何も変わらず誰も救えない。力なき正義は無能なのだ。
門出と凰蘭は夏期講習で親交を深め、秘密を共有することで共犯的友愛で結ばれていった。「秘密」とは、今で言う侵略者のことである。侵略者は本来8.31の未確認飛行物体が飛来したことで地球にやってきたとされているが、それからさらに数年前、既に「彼」は地球に降り立っていた。悪意のない子供たちに虐待される彼を救った二人はいそべやんのぬいぐるみの中に彼を隠した。

早熟な門出は小学生とは思えぬ信念とエネルギーに溢れている。自分と仲良くしたせいでいじめの対象となった凰蘭を守るため、「彼」から借り受けたリアル「ないしょ道具」を使う。いや、それより門出の運動能力の高さには驚かされる。いじめっ子達を制した門出は善行集団デーモンズを結成する。門出が作ったわけではない。いじめっ子達が門出の強さに感動して勝手に平伏しついてきたのだ。小学生の男の子は単純でカッコイイものが好きだ。それは男性的自尊心など軽々と跳躍する場合も少なくない。一日一善を標榜し彼等は困った人達に手を差し伸べ続けた。それは地球を調査しに来た「彼」に対し人間の良さを提示する為でもある。門出は言う自分は自分の正義に従ったまでだと。それに対しいそべやんの皮を被った「彼」は問うた。機械のような冷徹さを纏った声で。
自分の正義が正しいなどとなぜわかる。
門出は大人びているが大人ではない。熟考を重ねているが思慮深くはない。この言葉を本当に理解するにはまだまだ時間がかかる。やがて、門出の正義は暴走する。

朱色に染まる街並みは、ちょっとだけセンチメンタルな気持ちを掻き立てる。
目の前にある遮断器は頭に響くような警告音を鳴らし続ける。夕焼けを上塗りする赤色が眩しい。隣には妊婦がいる。長時間立っていては母体にも胎児にも良くないだろう。ここの踏切はいつも長い。この社会は弱者にいつも厳しい。自分が変えなくては。困ってる人を助けなくては。
次の瞬間。通過途中の列車は線路を脱し横転していた。何人もの負傷者がでた。大規模な脱線事故。その夜ニュースで知った。一人亡くなったことを。
この出来事は門出を追い詰める。誰にも相談できない。後戻りはできない。失敗は絶対にできない。

自分の基準で選別した罪人を門出は裁いていく。一人、また一人、汚れた街が次第に浄化されていく。それに反比例するように門出の心は虚無感が広がっていった。それでも良かった。凰蘭の笑顔に繋がれば。不祥事を起こした「銀しゃま」のライブを中止に追い込んだ。凰蘭を悲しませた罰。門出はこの力でクラスを掌握した。たが、一方的な気持ちは凰蘭には理解されなかった。正義なき力は圧制。門出の正義はもはや正義と呼べるほど美しいものではなく醜い悪魔、本当のデーモンと成り果てていた。

凰蘭はイジメられてる門出を見て見ぬふりをした。狭いコミュニティで自分を貫くには相当な勇気を要する。それは門出も理解している。学校では話しかけないほうが良いと気遣ってはくれるが凰蘭の気持ちは晴れない。UFOを見た。誰かと同じ話題で盛り上がる事自体あまりなかったのだろう。凰蘭は嬉しく珍しくはしゃいでいた。宇宙人らしい小人は少し怖いけど門出と一緒ならきっと大丈夫。門出は頼りになるし、強い心を持っている。きっと自分を守ってくれる。でも、本当にそれで良いのか。

凰蘭は当時天才と言われたイケメン兄のひろしに相談した。ひろしは頭脳明晰、運動神経抜群のハイスペックな自慢の兄だ。UFOを見た、宇宙人が侵略してくるのか、自分たちは大丈夫なのか、凰蘭は兄に率直な不安を吐露する。普通の大人ならこんな荒唐無稽な与太話、子供の妄想として取り合わないだろう。だがひろしは違う。凰蘭が嘘をつけないのを知っているから。危機に瀕した時、非常事態に直面した時、全ての人を守ろうとしなくて良いとひろしは言う。お前の事は俺が絶対守る。だからお前は誰か一人を守れば良い。これは凰蘭の優しさを汲んでの言葉だ。普段勇気のでない凰蘭も、危急存亡の秋にはきっと身を挺すだろう。それほど優しい少女だ。だが見ず知らずの人のために身体を張り、一番大切な人を守りきれない可能性もある。それでは辛い思いをするのは凰蘭自身だ。ひろしは凰蘭の良き理解者でありながら先導者なのだ。お前は…誰を守る?この問いかけは凰蘭の中で「絶対」というフォルダの中に押し込められた。開放するその時まで。

凰蘭はちょっとでいい、勇気が欲しかった。そんな彼女を見かねて「彼」は興奮材をくれた。どうやら「トノサマふんぞりガエル」に似た効能があるらしい。薬に頼るのはなんだか良くないことだと稚心に感じていた。でも持ってるだけで少しだけ勇気がでた…気がする。

凰蘭を守りたい門出。門出を救いたい凰蘭。すれ違った二人の想いは、平行線を辿る。どこまでもどこまでも。時空を超えて。ディストピアと青春は相反するようで紙一重。彼女たちの出会いと別れ、地球の行く末は誰にもわからない。

今作における幾田りら、あのの貢献度は非常に大きい。非声優でありながらこれほどキャラクターとの親和性が高いのも珍しい。アーティストとしての発声や表現力、今どきのアニメーションを見て育った世代であることも無関係ではない。
また、あのと凰蘭の一人称が同じことから演じるキャラクターの不自然さが全く無い。

諏訪部順一は一周回った、その色気を最も効力の発揮する配役がなされていた。
長年のニート生活で培ったわがままボディ。引きこもりの顔面イケメンなデブひろし。その一方で、門出の父を演じた津田健次郎は、的確なキャスティングだとは思うが、昨今のドラマ出演、実写映画出演、情熱大陸出演などから「今売れているタレント」という誤ったレッテルの貼られ方をしている事で素直に喜べない。キャリア30年のベテラン俳優が学生の時から目指していたものに喜々として取り組んでいることが世間一般では「売れている」というのか。メディアの声優に対する色眼鏡は気持ちが悪く、どうしても集客用に「売れている」津田健次郎を起用しようとしたのではないかと邪推してしまう。そして津田健次郎は最近働きすぎなので少し休養を願いたい。かつて、藤原啓治も多くのアニメに吹き替えにラジオに社長業に講師業にかなり忙しくしていたことを思い出し心配になる。余計なお世話かもしれないが。

いそべやん、もっと見たかった。そう願うファンは多いだろう。杉田智和のいそべやんは朴訥としているがどことなく日本テレビ、富田耕生版のドラえもんを彷彿とさせる。デベ子のTARAKOはテレ朝版の小原乃梨子を思い出す。まさかこんな所で再会できようとは。あの声は次作で聞き納めになるのかもしれない。

後章へつづく。
くまちゃん

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