くまちゃん

十二人の怒れる男のくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

十二人の怒れる男(1957年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

古典映画を目にする機会のない者は少しハードルが高いかもしれない。12人の知らない男性達が有罪だ無罪だと意見をぶつけることのみで構成されているのだから。誰が誰だが判別つかないし、役名も番号だし、モノクロだし。だがそんな心配は杞憂であったと開始5分で思い知る。いや、むしろ今までこの作品を避けていたことを後悔すらするかもしれない。密室劇で会話劇のリーガル・サスペンス。60年以上も前の映画ながらこの手のジャンルの金字塔として揺るがぬ立ち位置に君臨するシドニー・ルメットのデビュー作にして代表作。
脚本家レジナルド・ローズは殺人事件の陪審員に選出された際、議論は8時間にも及んだそうだ。その実体験を元にして描かれた合理性と非合理性、偏見や差別、思い込み、ディスカッションの必要性は第三者として冷静に俯瞰して熟考しなければならない陪審制の意義を問うとともにそれほど説教臭くなく、司法という難解なテーマを見事にエンターテインメントとして昇華できている。
また12人のキャラクターも一人ひとりが誇張のないレベルで際立っており、そこにはヒーローもヴィランも存在しない、他人の運命に関して真面目に議論するただの人間、個人がいるだけなのだ。

父親を殺害したとされる少年の裁判。物的証拠や目撃者、動機、アリバイなど証言や証拠の全ては少年に不利なものばかり。陪審員たちも少年の犯行を確信し疑わなかった。ただ陪審員8番だけは無罪を提言する。少年が父親を殺していないと思っているわけではない。ただ有罪にするには疑問点が多すぎる。無罪に確証は必要ないが、有罪にするには確証がいる。少年が有罪でも無罪でもその人生を大きく左右する陪審員たちは真摯に深く議論せねばならない。一つまた一つと湧き出る疑問。個人が抱える問題や経験を踏まえ、証言だけでは見えなかったものが立体を帯びてくる。
中には陪審員7番のように裁判自体に興味のない者もいれば陪審員12番のように意見をコロコロ変える軽薄な者もいる。
陪審員8番のように疑問を堂々と提示するものもいれば陪審員3番のように個人的感情に支配されてるものもいる。
彼等は司法の碩学ではなく制定法によって無作為に選ばれた一般人。全員に被告の罪を決定づける確信がある方がリアルとは言えないだろう。

陪審員4番は理知的で機械的で皆が猛暑に喘いでいる中一人涼しい顔をしている。隣の陪審員5番に汗をかかないのか尋ねられた際汗はかかないと発言している。これは嘘ではないだろう。だが後に陪審員8番から自身の主張の不確実さを指摘された際、広い額を一筋の汗が滴った。冒頭から暑いと言って登場人物のほとんどがシャツを汗で濡らしていた事に合理的理由が見いだせなかったが、陪審員4番の汗を目にした瞬間理解できる。このためだったのではないかと。周囲が汗を流す中一人だけフォーマルな服装を着崩すことなく汗もかかない。だからこそ詰問で言い淀み、汗を流すことで本人の焦燥感が際立って演出される。

物語の決着は無罪で終わる。最期まで有罪を主張していた陪審員3番の感情が溢れ無罪に統一されるラストは力技であり、そこのみ肩透かしをくらってしまう。それなら陪審員4番を最後の砦にした方がロジックとしては成立したのではないか。少年が実際罪を犯したのか、冤罪なのかそれはわからない。これは陪審制を描いており、犯罪の有無は問題ではない。誰もいない部屋の中には吸い殻の溜まった灰皿や書類、陪審員8番が置いていった凶器と同じナイフが残されている。少年の未来のため、大人たちが本気で議論した痕跡は鑑賞者の目にしかと焼き付けられるだろう。
くまちゃん

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