くまちゃん

オッペンハイマーのくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

天才科学者オッペンハイマー。「原爆の父」と呼ばれた彼は日本ではそれほどメジャーな人物ではないだろう。世界の歴史を変え、日本の運命を変え、その源流に佇むプロメテウスは如何に核兵器の開発に着手したのか。今作はピューリッツァー賞受賞作を原作に、映像の魔術師クリストファー・ノーランがオッペンハイマーの栄光と没落を壮大なスケールで描いている。

クリストファー・ノーランと言えば時間軸を入れ替えた巧みなプロットや独自の科学考証に基づくSFの名手である。発表される作品は毎回注目され、前作「テネット」は難解ながらリピーターが続出するほどの社会現象を巻き起こした。今作はそんなノーランが実際の歴史に自分の得意分野を落とし込んだ現時点での集大成と言える。

キリアン・マーフィーはノーラン組の常連ながらずっと端役に甘んじてきた。恐らくノーランにとって居てもらえれば必ず100%の仕事をしてくれる安心感があるのだろう。白石和彌にとっての音尾琢真みたいなものか。キリアン・マーフィーは実際主人公っぽい顔はしていない。良い意味での普通。しかし、そこに一度スポットライトが当たればその「普通」たる演技が優秀である証左であることを思い知る。エキゾチックな双眸、困惑したような唇、不健康そうにコケた頬、それでいて堂々たる立ち姿、本人との親和性。この映画はキリアン・マーフィーでなければ成立しなかった。そして成功もしなかった。圧倒的な普通さこそがキリアン・マーフィーの唯一無二たる所以ではないかと思う。
また理論物理学の権威であり、6カ国語を操る非凡な側面と実験が苦手、運動が苦手、女癖が悪いといった平凡な側面、その人間らしさがオッペンハイマーを立体的に浮かび上がらせ、キリアン・マーフィーの熱演によって我々観客はオッペンハイマーの傍らに立っている錯覚を覚えた。

ルイス・ストローズは靴売りから政治家に成り上がった豊臣秀吉であり、アメリカ原子力委員会の委員長を務めている。オッペンハイマーに恥をかかせられたことを根に持ち聴聞会、公聴会にてオッペンハイマーを英雄の座から引きずり下ろそうと画策する狡猾な人物として登場する。
ストローズは南部の人であり、高卒で保守的な反共産主義者であるのに対し、オッペンハイマーは北東部出身で頭も良く、左翼気味なリベラル派である。この事からわかるようにストローズとオッペンハイマーは対を成して存在している。
ストローズがオッペンハイマーに固執するのは単にプライドを傷つけられたからではない。己の持てる金と権力を総動員して失墜させるというのは並大抵の怨恨では成し得ない。彼は長年の苦労の末に施した何重にもなるメッキの数々が剥奪されることを恐れているのだ。ストローズはオッペンハイマーをこう評す。「奴は科学者を操れるのだ」と。それはオッペンハイマーの学者としての一面のみならず、名だたる研究者を統率し科学から終戦に導いたその卓抜たるカリスマ性を示している。あのアインシュタインさえも彼の言いなりであると。だがそれはストローズの被害者意識から派生した視野狭窄の畢竟たる妄執であった。ストローズは宗教に対し敬虔であるという。もしかするとオッペンハイマーに悪魔的な何かを盲信していたのかもしれない。
ストローズを演じるのはロバート・ダウニー・Jr。演じる年齢層が異なっても、見た目以上に演技で歳を重ねたのが判別できる。ロバート・ダウニー・Jrは元々メソッド演技法で役柄を探求する演技派であったが、極度のストレスと長年に渡る薬物問題を経て、個性派へとシフトチェンジを図った。それ以降は癖のある助演で崩落しかけた基盤を再構築し、不動の地位を築き上げた。つまりロバート・ダウニー・Jrは繊細な演技も誇張された演技も様々なアプローチの抽斗を持つ演技職人なのだ。「チャーリー」ではチャップリンになりきり、「トロピック・サンダー」では整形で黒人になったオーストラリア人俳優という奇天烈な役を見事な黒人訛りで演じきった。また「アイアンマン」のオーディションではスキャンダルを危惧する制作陣の不安を払拭させるほどに圧倒的だった。今回の役も一筋縄ではいかない。実在の人物であり複雑な精神性を抱え、多くのアイロニーを醸し出す。そんなルイス・ストローズをロバート・ダウニー・Jr独自の方法で表現した。ストローズに合う役者は他にもいただろう。しかしこのストローズはロバート・ダウニー・Jrにしか演じられない。またロバート・ダウニー・Jrの所作の一つ一つ、発話の口唇による一語一語を見る度に藤原啓治が脳裏に蘇る。それほどロバート・ダウニー・Jrと藤原啓治の相性は確固たるものだったと再認識させられた。

今作では主題として据えられた原子爆弾がもたらした惨烈たる結末の描き方について賛否が分かれている。
1945年8月6日に広島へ「リトルボーイ」が、8月9日に長崎へ「ファットマン」が投下された。その破壊力は凄まじく、文字通り地球上からそれぞれの都市を消し去った。「焦土化」「焼け野原」などと言う生易しいものではなく俯瞰的に見れば「無」であり、当事者たちから見ればまさに「地獄」という言葉が当てはまる。死者は合計で20万を超えると推定され、被曝者たちは長年その後遺症に悩まされた。
日本での原爆とは戦争の悲惨さを象徴し、戦争から切り離すことはできない。なぜなら歴史的には過去であっても日本にとっては現在進行系だからだ。まだ存命の被曝者もあり、被爆二世、被爆三世への健康被害の調査や任意での健康診断も行われている。映画での扱いにシビアになるのも当然であろう。
今作では原爆投下に関する明確な場面は描かれず、オッペンハイマーがその事実をラジオで知るという描写に留めている。これをアメリカと日本の核に対する認識の差とする考えも理解でき、また反駁としてオッペンハイマーの一人称であるがために描いていないとする主張も整合性のとれたものだと感じる。映画としての原爆の扱いがどちらのほうが正しいのかはわからないし答えはないのかもしれない。ただ言えるのは戦争は「原爆だけではなかった」という事実だろう。日本はどうしても原爆や核に厳しい目を向けてしまう。しかし戦争とは特攻隊や復員兵、市井に暮らす民間人、広島、長崎、以外の地方都市、参戦した日本以外の国々など、フォーカスする部分によって大きくそのアプローチも変わってくる。そして原爆に限れば日本は被害者だが、第二次世界大戦という大きな括りの中では必ずそうとは言えない。長年議論の的となっている韓国の慰安婦問題や民間人による私刑、捕虜の処刑や被曝者への人体実験など日本人も幾らかの戦争犯罪に手を染めている。戦争とは誰もが英雄であり愚者であり加害者であり被害者なのだ。

オッペンハイマーの視点では原爆投下を目にしなかった。それが前提としてある。今作が戦争そのものではなく戦時中に生きた一人の人間を描いているのなら、良心の呵責や深い悔恨の念に苛まれる演出として肌の剥離や炭化した死体、ピカドンの幻影を見る場面が今作における原爆描写の限界なのではないか、とも思えるのだ。ただ、その場面はもっとグロテスクにあるべきだ。
また、例えば「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」のように2つの視点で描いたものならばあるいは納得のいく答えがそこに提示されることもあったのかもしれない。
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