くまちゃん

あこがれのくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

あこがれ(1958年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

フランソワ・トリュフォーは雑誌のインタビューで人生で成し遂げようとすることを一つに絞れば人間はやりたいことを必ず成し遂げられると語っている。
映画作家を目指して以降、その一点に全ての熱意を集中させてきた彼自身の言葉は説得力がある。本来映画監督とは助監督での修行を経てなるのが普通であったが、トリュフォーは違った。映画を鑑賞すること、映画批評を書く事、それ自体が彼にとっての修行だったのだ。それは本人の努力だけではなくトリュフォーが精神的な父親と慕うアンドレ・バザンや、批評仲間のリヴェットやロメールやゴダール等との出会いもその人生に大きく影響を与えているのは間違いない。

トリュフォーは「カイエ・デュ・シネマ」の誌上で「フランス映画のある種の傾向」という論文を発表し、当時フランス映画界を牽引していた巨匠監督達を痛烈に批判した。その激しい論調から「フランス映画界の墓掘り人」と呼ばれ、これは結果的にヌーベルヴァーグ宣言と見做された。

今作はモーリス・ポンスの短編小説を原作としており、トリュフォーの映画作家への漠然としたあこがれを具体的な指針へと導いた記念碑である。
しかし、実際撮影が始まると思うようにはいかなかった。その作品の主題が自分の好みではなかったと気がついたのだ。内容は子供たちが恋人に悪戯をしかけるというものだがトリュフォーはそこに面白みを見いだせなかった。女優に興味を示さぬ子供たちに嫉妬を強要するような無理な演技をさせてしまったのが自分のスタイルに合わなかったらしい。
その一方で子供たちを撮影するのは楽しかったそうだ。カメラを回しドキュメンタリー調に子供たちのありのままを映像におさめる作業は快調そのものだった。それが後の作風に繋がっていくのだろう。

木漏れ日の中颯爽と自転車に乗るベルナデットに子供たちは夢中だった。露わになる太腿や翻るスカートに幼い欲動が刺激され、性の目覚めに繋がった。本人不在の間にサドルに顔を近づける子供たち。それは好きな娘のリコーダーを口にするような、本人にとっては青春でありながら他人にとっては変態的倒錯行為以外の何ものでもない。それも幼さ故。
ベルナデットとその恋人ジェラール。二人を冷やかす子供たち。彼等の均衡は突如として崩れ去る。ジェラールの死によって。トリュフォーの言うように、子供たちと恋人にはなんの繋がりもない。邪魔をされたくないジェラールは子供たちに対し時には折檻をすることもあるが、ベルナデットに関しては子供たちをほとんど意に介さなかった。
ちなみにベルナデットとジェラールは当時本当の夫婦であり、トリュフォーの強い希望でジェラールの反対を押し切ってベルナデットの出演に繋がった。この経緯からトリュフォーとジェラールの関係性は終始不穏なものだったという。今作は本来もう少し上映時間が長く設定されていたがトリュフォーの判断でカットされたシーンが存在する。その理由はジェラールが出しゃばり過ぎるから。役名と本名が同じだが、果たしてそこに公私混同はあったのかどうか。映画出演後、ベルナデットとジェラールの夫婦生活は破綻した。
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