耶馬英彦

市子の耶馬英彦のレビュー・感想・評価

市子(2023年製作の映画)
4.0
 予告編からして、かなり重そうな内容だったので鑑賞を先送りにしていたが、若葉竜也の「ペナルティループ」を観て、こちらも観る気になった。
 本作品の長谷川役の演技もよかったのだが、それよりも市子の存在感が圧倒的で、他の人間が霞んでしまった。抱えている宿命の大きさに怯むことなく、強く生き延びようとする市子を、杉咲花は見事に演じきったと思う。
 市子にとって、正しいとか正しくないとかは関係ない。役人とか警官とかに捕まって自由を奪われるのも嫌だ。利用できるものは何でも利用する。行動は大胆で、迷いがない。周囲の人間はその悪魔性に恐れをなすが、悪魔というよりも、野生動物が常識人を装っている印象だ。

 シーンは時代を行き来するので、その度に市子の年齢を計算しながら鑑賞した。映画の現在が2015年で28歳という長谷川の発言と小学生時代を語る女性の発言から、当方なりの計算を時代順に並べてみる。
 1987年 誕生
 1999年 12歳 小学校3年生
 2008年 21歳 高校3年生
 2015年 28歳 現在

 日本における戸籍の問題は、2022年の邦画「ある男」の中心テーマになっていた。戸籍によって差別されることを避けるために違う戸籍を手に入れた話だ。日本では、戸籍の変更はDNA鑑定等の科学的な証拠を必要とせず、印章とその印鑑証明があれば、簡単にできる。
 しかし嫡出子の300日問題はややこしくて、これまでは離婚後300日以内に誕生した子は、前夫の嫡出子とみなされるから、前夫との関係を絶ちたい母親は、出生届を出さないことがある。そうならないためには前夫から嫡出否認を申し出て貰うしかない。前夫と連絡さえ取りたくない母親には無理というものだ。
 それが今年(2024年)の1月から、民法が変更になる。嫡出否認が母と子からも申し出ることができるようになるのだ。DNA鑑定も使われるようになった。

 日本の戸籍制度は抜け道が多い。だからマイナンバーカードを普及させようと躍起になっているのだが、誕生の際にDNAを登録するほうが合理的だという気がする。もちろん賛否はある。共同体を信用できない人は、究極の個人情報であるDNAを国家に管理されたくないだろうし、犯罪者にとっては犯人の特定が容易になってしまうという不利がある。警察にとっては有利だろうが、悪用される可能性も大きいし、徴兵に使われてはたまらない。
 共同体を信じられるかどうか、日本国憲法の基本的人権の尊重が守られるかどうかが、誕生時DNA登録のキーとなる。DNA鑑定による個人識別の精度が相当に高くなった現状を踏まえれば、戸籍制度の改善と合わせて、議論していく必要のあるテーマだと思う。

 市子は文字通り、不幸の星の下に生まれた。マイナスからの出発だから、人並みの体験にさえ、幸せを覚える。しかし自分を不幸とは思っていない。助けてほしくもない。一緒にやろうと言ってくれるのが嬉しい。そこにはじめて対等の関係がある。市子は、自分の存在を肯定するために生きてきた。助けてやるという言葉は、市子を否定する言葉だ。だから激しく反発する。
 日本国憲法には、すべての国民は個人として尊重されなければならないと記されている。生まれてきただけで、肯定されなければならないのだ。
 家制度が廃止されて、戦後間もなく新しく戸籍法が制定されたが、まだ家制度の名残があって、門地にこだわっている。300日問題もそのひとつだ。今回の改正ですべてが解決される訳ではない。新しい市子を生み出さないための不断の努力と、門地や人種や国籍にこだわる差別主義者たちの精神の変革が、継続的に必要だ。
耶馬英彦

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