くまちゃん

52ヘルツのクジラたちのくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

52ヘルツのクジラたち(2024年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

町田そのこによる原作小説は2021年本屋大賞を受賞しベストセラーとなった。キャッチーかつ文学的なタイトルのワードセンスも相まって読書とは無縁の者でも一度は目や耳にしたことがあるのではないだろうか。52ヘルツのクジラとは他の種より高い周波数で鳴くため、その声は誰にも届かず、世界一孤独なクジラとして認知されている。だが存在は知られているが未だ発見に至っていない。発した声を受け取ってくれる相手も声をかける相手もいない。今作は家族という呪いによって傷ついたクジラたちが絶望と後悔を経て、未来を希望の満ち溢れる海に変えようと歩み出す様を描いている。

今作には虐待と性的マイノリティ、自殺といった繊細な内容が含まれる。もちろん原作はそれらをいたずらに助長するようなものではない。だがその映像化となると当事者たちのトラウマを呼び起こさせ深く傷つけてしまう可能性を多分に孕んでいる。
日本国憲法第21条により表現の自由が保証されているとはいえ、制作側は如何なる場合も当事者への適切な配慮と絶大な敬意を払う必要があるだろう。ただ面白いからと言うだけでの過剰演出は表現を履き違えたただの暴力でしかないからだ。

原作における貴瑚の半生は凄絶を極める。母は元々精神的に不安定な部分があり貴瑚に対し暴力と抱擁を繰り返す歪んだ愛情表現しかできなかった。それでも貴瑚を謝りながら抱きしめてくれる瞬間に愛を感じ暴力に耐えることもできた。だが母は再婚し、子供が生まれると義父とともに貴瑚へのあたりがきつくなった。暴力を振るわれトイレに閉じ込められ、便器での食事を強要される。異変に気がついた担任教師の無責任な正義感で貴瑚はさらなる暴力を受けた。会社を経営する義父は病気と事故により寝たきりとなった。その介護を任せられたのは貴瑚一人。母や弟は手伝ってくれない。行政のサポートを受けることは母が許さない。この貴瑚が背負わされた重責、義父が誤嚥性肺炎と診断された時は母に殴られ詰られ責められた。報われることのない人生は限界に達していた。その時出会ったのが岡田安吾だった。
この現在の貴瑚の人格形成に至った経緯、特に虐待部分がほとんど描かれていない。長い時間をかけて、ブラッシュアップしてきたシナリオでそこが希薄になったとは考えづらいためおそらくあえてそうしたのだろう。
確かにボロ雑巾のような惨めな姿で徘徊する貴瑚の画はそれだけで過酷な生い立ちを読み取れる。しかし、ヤングケアラーとしての大変さは伝わるがそれ以外が伝わり難い気がする。
また村中の祖母の存在や、この土地における貴瑚の祖母の評判など説明不足な部分が多々見られる。映画としてのテンポは良いがその分必要な情報まで削がれた印象が強い。

安吾が貴瑚に駆け寄った際、美晴は瞬時に貴瑚だと認識していた。高校卒業以来会っていなかった友人の変わり果てた姿を偶然目にして、瞬時に誰かと認識できるだろうか?

村中の祖母の存在意義は原作に比べほぼ皆無であり、物語の推進になんら貢献しているとは思えない。

貴瑚の職場の同僚清水を演じた若林佑真は今作でのトランスジェンダー監修も行っている。彼自身、出生時に割り当てられた性別が女性でありながら性自認は男性である。脚本段階から監修として当事者が関わることで岡田安吾のキャラクター性がより立体的になったように感じる。特にホルモン注射での場面は自然な流れでセリフもなく観客に安吾はトランスジェンダーであると示しており、映像だからこその見せ方が実にうまい。若林佑真曰く、序盤にトランスジェンダーであることを開示することで安吾の心にフォーカスされるようにしたいと思ったそうだ。また線が細く中性的な面立ちの志尊淳が顎髭を蓄えている描写は見た目こそアンバランスに見えるが、トランスジェンダー男性が男性的ディテールを演出するためあえて髭を伸ばしたり、上半身を鍛えて逆三角形の逞しい肉体を作り上げたりするというのは実際にある事らしい。
LGBTQ+を扱った作品ではそれを演じるのが当事者かどうかという問題が必ずと言っていいほどあがる。今作では当事者である若林佑真が出演含め作品に密に関わっておきながら実際にトランスジェンダーを演じたのはシスジェンダーである志尊淳であった。ここで考えなければならないのが志尊淳である妥当性についてだ。彼はドラマ「女子的生活」で一度トランスジェンダーを演じており、いくつかのドラマ賞を受賞するなど名実ともに好評を得た。事実、その後類似した役どころのオファーが増えたそうだ。だがトランスジェンダーを自分が演じ続けることでそこに関する偏見やステレオタイプなイメージを世間に与えてしまう可能性もある。作品を観た当事者たちに悲劇性のみが伝わってしまう可能性もある。今作では役を引き受ける前に監督やプロデューサーと意見を交わし、希望を与えられる作品であり、役でなければならないと自身の意志を明確に伝えた。それは制作陣も同じ気持ちだった。だからこそこのキャスティングは実現したのだ。もちろんキャラクターのイメージや主演陣と並んだ時のバランス、個人の演技スキル等の理由があるのだろう。しかし一番はキャラクターに真摯に深く向き合える真面目さと、この役が評価されるのであればそれは若林佑真に対してだと語る謙虚さに理由があるのだと思う。

今作ではトランスジェンダーである若林佑真がシスジェンダーを演じている事が新鮮味を帯びている。ポリティカル・コレクトネス的な観点から例えばあえてトランスジェンダーのオリジナルキャラクターを登場することも可能だったはずだ。しかしそうしなかった。
シスジェンダーの志尊淳がトランスジェンダーを演じるならその逆もまた然り。
昨今の映画業界はポリティカル・コレクトネスにシビアになりすぎている。差別的なものは論外だが性別や人種を超越した自由な発想とその人でなければならない合理性を考慮したキャスティングが必要なのではないか。
パンフレットの中にはLGBTQ+に関する用語や相談窓口などの解説も掲載している。映画を観て傷つく人たちは一定数存在するだろう。そこに寄り添う対策としての制作陣の最大限の配慮はパンフレットを買わずともスクリーンの向こう側へ届いてほしいと願わずにはいられない。
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