ヨーク

ロボット・ドリームズのヨークのレビュー・感想・評価

ロボット・ドリームズ(2023年製作の映画)
4.2
大変良い映画だと思いました。
まず第一声がそれなのでとても満足感の高かった『ロボット・ドリームズ』なのだが、先日『ゴンドラ』の感想文でも「今日日中々ないよね」と書いたばかりでその舌の根も乾いていないのだが本作『ロボット・ドリームズ』もセリフなしのサイレント映画であります。何なんだ! 流行っているのか!!まぁ別に流行ってても流行ってなくてもどっちでもいいけど、でも高い映像表現力が求められるセリフなし映画というのが新作でたくさん作られるというのはいいことだ。俺にとって。
まぁ本作はそういう映画だし、サイレント映画というのが概ねそうであるように『ゴンドラ』もそうだったが本作もその例に漏れず、そこまで複雑な物語というのは描かれずに実にシンプル映画となっているのである。
そのお話というのは、時は恐らく1970年代後半、ニューヨークのブルックリン辺りかなぁと思われるアパートで一人暮らしをしている犬のドッグはアタリ社が72年に発売したテレビゲームの祖とも言える「ポン」を一人二役で対戦してるほどの限界孤独犬であった。窓の外を見れば隣のアパートではヤギのカップルがラブラブしている様子が目に入ってきて自身の孤独感はもう限界突破で何でもいいから他人のぬくもりがほしい! という状況であった。そんな折、ドッグの目に深夜のある通販番組が飛び込んでくる。それは自宅で簡単組み立てできる友達ロボットの通信販売であった。これだ! と思ったドッグは早速注文して自宅にやって来たロボを組み上げ彼と友人になる。それから限界孤独ドッグだった彼の生活は一変してロボとの楽しい共同生活が始まるのだが…というお話である。
ま、一応ネタバレに配慮して書くが、予告編でも察せられるように本作は楽しくハッピーなだけの映画ではない。詳しくは書かないが後半はかなり切なくやりきれない展開が待っている映画なのだ。でも悲しい映画というわけでもなく、切ないけれど前向きに生きていこうと思える物語なのである。そこで重要なのはドッグとロボという二人の主人公に次いで、ニューヨークという街そのものが第三の主人公として描かれている点であろう。
これを書くと勘の良い人は終盤の展開を察してしまうかもしれないが、気にせずに書くと、俺はこの『ロボット・ドリームズ』という映画はめちゃくちゃウディ・アレンだなー、と思いながら観ましたよ。だって70年代後半のニューヨークでしょ? それだけでもモロに『アニー・ホール』だけど本作最終盤でもっとも心に残るであろうあのシーンの演出も『アニー・ホール』まんまじゃないか! これはいい意味で予想を裏切られたね。まさかそういうテイストのある映画だとは思っていなかった。なんというか、ウディ・アレン作品にあるような生々しさはない作品だと思っていたのだ。
言うまでもなくウディ・アレンは男女の関係を下らなくも軽やかに描いてきた監督だが、その舞台は自身の出身地でもあるニューヨークがかなりの数を占める。原作は絵本らしいのだが、まぁ本作が映像化されるの当たってウディ・アレンから多大なるインスパイアを得ているのは明らかだと思いますね。んで、ウディ・アレン作品の影響下にあるものだと思えば後半のあの展開もすっげぇ納得がいく。というか、それしかないよなという展開である。
あれねー、人によってはそこそこショックを受ける展開かもしれないけど、ウディ・アレンもそうだし本作でもそう描かれていると思うんだけど、あの展開というのは切ないけれど解放の物語となっているんですよね。愛がときめきとわくわくを失って血を繋ぐためだけの檻となるのなら、そんな場所からは抜け出してしまってもいいんじゃないのか、そして新しい愛に出会うべきではないのか? というのはウディ・アレン作品でよく描かれる物語である。本作のドッグとロボは性別不詳なのでいわゆるロマンティックな愛なのかと言われたら何とも言えないが、単なる友情としても観られるしそうではない観方もできるようにはなっているであろう。なんにせよ、それが友愛であれ性愛であれ、愛の物語であることには違いないとは思う。そして繰り返しになるが、愛というのは移ろいゆくもので、出会った頃はあんなにキラキラしていたものが今はもう…となるものなのである。
この非常に普遍的な愛というものがねぇ、俺のこじつけセンサーにビンビンときましてねぇ、本作はウディ・アレンぽさがありつつも聖書の要素も…というか神と人間のお話しだよなということも思ったんですよね。いや、ここから先は俺のこじつけセンサーが感知したものを妄想で膨らませただけなのであんまり真に受けないでほしいのだが、英語圏では定番の駄洒落的なものとしてDogとGodをかけたネタというのがよくあるんだけど、本作は暇を持て余したドッグがロボを作り上げて一緒に遊ぶお話なんですよね。んで、ネタバレしないようにぼかして書くが、本作の感想を眺めてると「中盤以降のドッグが薄情だ! もっとロボのために頑張れ!」というようなものをちょくちょく目にした。いや、そこは俺も思ったよ。てめー! ロボくんを置いたままでなにハロウィン満喫してんだよ! とかは思った。でもDogはGodなんですよ。戯れに自分の似姿を作って一緒に遊んでたけど、何となくもういいかー、と思ったりもするし何だったら積極的に苦難を与えてきたりしやがるんですよ。その苦難というのは愛ですよね。そういう観点で本作を観ると、ロボからドッグへの部分はまるで「ヨブ記」のようにも思える。ひたすら耐え忍んで神からの救いを待ってるロボくん目線だと、Godもといドッグに対しては「てめー! 何とかしやがれ!」となるわけです。でも本作を観た人なら分かるけど別に人と神の対立のお話しというオチになるわけでもなく、むしろ逆にその和解が描かれるのがとても良かったですね。それは永遠ではない愛との和解であり、自立でもある。そこら辺の描き方というのがとてもいいんですよねぇ。本作では人が神の手から離れて自分の足で進んでいく(ロボくんはわりと最初から自由だった気もするが…)さまと神が自身の似姿から離れていくさまを、信仰が試されるような重苦しいようなトーンには一切ならずに軽やかに描いているのである。神と人(ロボだが)が離れ離れになっても大丈夫だよ、って。
ま、そこら辺は最初に書いたように俺のこじつけセンサーが感知して暴走した妄想でしかないが! でもサイレントな作風もあってそういう想像も許容される余地のある懐の深い作品だと思うんですよね。そこが本当に素晴らしい作品だなと思う。でもそういう方向から観たら、ロボットの夢、というタイトルもなんだか含蓄があるような気がしませんか? アンドロイドは電気羊の…じゃないけどさ。
あと、上で三人目の主人公としてニューヨークという街がある、と書いたが、その点に関しても書いておくと本作で描かれる70年代後半から80年代前半くらいであろうニューヨークは非常に変容と交雑の街として描かれていて、先日観直したワイズマンの『ジャクソンハイツへようこそ』の雰囲気がそのまんまアニメに落とし込まれているような感じがしてそこも良かったですね。ジェイムズタウンとかと並んでアメリカ始まりの地の一つとしてのニューヨークという街を描いているわけだが、それが交わり続けて変わり続ける街として高らかに歌い上げられているのは今観るとグッとくる反面、作品のせいではないが時代設定も合わせてあの頃は良かったという懐古ぽさもあって、あぁ…と思ってしまうところもありましたね。
というのも俺が本作を観たのはアメリカ大統領選の11月5日で、映画が始まる前にスマホでちらっと見たニュースではトランプの再選がほぼ確定という状況だったんですよ。重ねて言うが本作には昔は良かったなぁ的な要素はそれはそれであるものの、別に2024年の大統領選との関連はなくて(当たり前だが)これは単に俺が観たタイミングがそうだっただけということなのだが、本作で描かれていた良くも悪くも多様で雑多でごちゃごちゃした風景というものへの憧憬をより強く感じてしまったということがあったんですよ。アース・ウィンド・アンド・ファイアーの「セプテンバー」が主題歌として繰り返し流れるのも、当然例の失われたタワーを連想しはするのだが、そこに24年の大統領選も重なっちゃったもんだから余計にしんみりしちゃうとこはありましたね。繰り返すが、そこは単なる偶然だけどさ。
でも映画自体は最初の方に書いたように前向きに終わるんだよ。人生は切なく、過去はどんどん後景へと退いていくけど、でも楽しかったことは忘れずに今でも踊るよっていう風に。だからね、まぁ現在もいつかそうなるんだろうと思うからそんなに悲観せずに楽しく生きればいいんだと思いますよ。今ここにある関係とか体制とかが全てじゃなくて、それらは全部変化していくものなんだよっていう映画ですよ。『方丈記』ですよ。なので大変良い映画でしたね。
あと、色んな小ネタも仕込まれてるのでそれ探すのも楽しい映画だったな。部屋のポスターとかシルエットがマジンガーに見えるフィギュアとか、アルフっぽいチラシとかが紛れていて楽しかったですよ。リル・バックのドキュメンタリー映画で観たけど、街角で踊ってる人が後にジューキンと呼ばれるギャングスタ・ウォーキンみたいな動きしてるのもニューヨーク感が最高にあってよかった。
映画はドッグとロボの二人の世界をミニマルに描いているように観えるんだけど、実はそれはいかようにも解釈できたり様々な文化が溶けあっていたりという幅の広さと懐の深さを感じさせる映画でしたね。素晴らしいニューヨーク映画でした。
いい映画でした。
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