んたん

ノスタルジア 4K修復版のんたんのネタバレレビュー・内容・結末

ノスタルジア 4K修復版(1983年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

劇場で観直してもやっぱりわからなかった。でも今回もまた感動した。
霧や湯気、風、後半にかけてのシンメトリー美。画で感覚的に好きならばもうそれで良いかなとも思う。

序盤すこし寝たけれど、隣で友人が揺すってくれたし、結局配信も観直したから、間に合ったことにしたい。

アンドレイの記憶の断片のように度々挟まる、モノクロな霧立った牧歌的風景。
そのシーンから始まる本編とともに早々クレジットが出るタイミングで、近くに座っていた幼い子ども(父親に連れて来られたのだろうけれど、2桁もない年頃に見えたから驚いた)が、「終わり?」と父親に尋ねていた。
作中でドメニコが子どもに世界の終わりを尋ねられらるシーンともリンクし、不思議な気分だった。
本気なのか冗談なのかわからないけれど、たしかにカラーフィルムに切り替わる区切りでもあるし、終わりでもあると思った。
該当シーンからなんとなく漂うものは、アンドレイが今いるそこにはないいつかの景色、それも地続きではなくまるで他生を懐古しているような遠い感触だから。

わからないなりにも、初回観賞ではさっぱり理解できないと記録していた、蝋燭渡しのシーンの意味について新たに思うところがあった。

蝋燭を繋いだ先には何もなかったということだ。
狂人ドメニコの焼身も行為もまた、意味をもたらさなかった。

メタ視点な感想になるが、そのシーンが彼らの成すことの有用性のなさを示すために作用していたなら、映画を構成するいちシーンとしては意味があったのだと思う。
一滴に一滴を足しても大きな一滴になるだけという言葉を、彼らが実行したことを通して解釈した。

1+1=1を受け入れた上で、願うばかりの行為に至ること、少しばかりでも心の安寧を得られる生き方に縋る性は愚かに見えるかもしれない。またしても、教会に関心を持つエウジュニアを一蹴していたアンドレイが、終いには必死に儀式を遂行する姿にはやはり違和感がある。

無論、彼らの無意味な執着を冷笑することはない。
ロジカルに世界を改善することは諦めたのに、己に残った良心だけは強く主張したがる私にとって、アンドレイやドメニコのエゴイスティックな言動は、批判どころか共感の対象に近いことに今回の観賞では気づいた。
慈しみも不条理も含むものとして世界を知覚した時の彼らの対処方法が、内を向いて生きることだったのだと思う。

パンフレットを購読したら、最後のタルコフスキーの言葉というページが印象的だった。
その一片に、「芸術が誰にも何も教えることができないのは明らかだ。四千年もの間、人類はまったく何も学んでいないのだから。」と、まさに最近何か思考する度に陥る結論が綴られていた。
人の学ぶ能力に限界を感じて落胆している。自分の欠陥に全人類巻き込むことは申し訳ないが、現実では知識を豊かにしたところで心の機能はそう簡単に進歩しないと思わざるを得ないことばかり起きる。
それでも学び続けることが大事だと主張する自信は消えかけている。

タルコフスキーはなお、芸術とは人生の真の意味である愛と犠牲を反映したものとも語っている。
郷愁に耽たこと、故郷を諦めたこと。心象にすぎなくても美しい風景を映し出したこの後に、ソ連を亡命して二度と戻らなかったタルコフスキーの芸術観念そのものだ。

よく詩的・幻想的にノスタルジアを表現した作品と謳われているし、自分もそう感じていたが、郷愁という言葉が存在する背景には、国家や土地や民族といったバウンダリーを引いている社会があり、それはいかにも現実だなと思う。
今回の観賞では、境界を無くすことでしか感性は分かり合えないと思考するアンドレイ(これは監督と役両方を指しておく)だからこそノスタルジアに心を悩まされていたのだという風に腑に落ちた。

それでもまだまだ知りたいことだらけ。
この映画を解るためには宗教的理解もやはり必要そう。羽ばたく鳥と舞い落ちてくる羽根の対比、風に吹かれて消える灯火、こういうモチーフには信仰的な精神性を感じるし、でも何を意味するのかさっぱりわからない。
前回観た時と同じく、他のタルコフスキー作品を観ないことにはまだ考えようもないことを反省している。

あとドメニコのスピーチを傍聴する人々のなかに黒ヘルメットを被る人がいたけれど、あの黒ヘルはファシストを示しているのか、それとも違う象徴なのか、目についた途端気になり出した。
また観ます。
んたん

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