面白かったですね。
面白かったんだけど、しかし原作小説を読んだのは確か10代後半くらいの頃だったのでぶっちゃけ内容はよく覚えていなかったのだが俺が記憶している限りでは結構オリジナル要素が多い映画だったように思う。というか安部公房の他作品の要素もミックスした感じになっているような気もする。そういう意味では本作はタイトル通り『箱男』でもありつつ安部公房リミックス的な楽しみ方もできるのではないだろうか。
お話は安部公房作品らしい多層なレイヤーから織りなされるもので突拍子もないフィクションな設定の中でドキュメンタルな内容が語られたり、入れ子構造のメタフィクショナルな構造の中を行ったり来たりするものである。永瀬正敏演じる主人公の「わたし」はカメラマンとして対象を観察して切り取る存在なのだが、ある日箱男という存在を知り自らも箱男となる。そして浅野忠信演じる「ニセ医者」は「わたし」から箱男の座を奪おうとするし、そこに佐藤浩市演じる「軍医」の思惑も関わってくる。そしてその箱男を巡る三人の男の間にはある一人の女がいて…というお話ですね。
うん、よく分からんな! なんとかあらすじとしてまとめてみようと思ったがよく分からんよこのお話! まぁ上記したように多重な構造を持つお話でメタ視点も含めて目まぐるしく様相が変化していく物語なので設定的な意味で分かりやすく本作を紹介することは非常に難しい。ちなみにタイトルでもある『箱男』がなんなのかというと、そこはわりと言葉通りな感じで段ボール箱を全身を覆うようにすぽっと被って僅かに開いた覗き窓から外界を一方的に観察しながらその様子を手記にまとめる男のことである。いや、だからよく分かんねぇよ、と言われそうだがビジュアル的には『メタルギア』シリーズのお約束的な段ボールを被って移動する主人公のようなものだと思っていただいて間違いない。
さて、その奇妙な箱男が何を示すのかということだが、ここで大幅に話を脱線させると俺はこの『箱男』を観た日の午前中は先日まで上野でやっていたジョルジョ・デ・キリコ展に行っていたんですよ。ジョルジョ・デ・キリコといえば日本の知名度ならおそらく「通りの神秘と憂鬱」が一番有名であろう。タイトルでは分からないかもしれないが少女・車輪・絵とかで検索すれば多分一番上にヒットすると思う。画を見れば、あぁあれね、となる人はかなりいると思われる。まぁ今回のデ・キリコ展ではその「通りの神秘と憂鬱」はなかったんだが…。それはともかくデ・キリコという画家はあの一枚からも分かるように従来の絵画的規範からは外れたシュールな作品を得意として後のダリとかが展開したシュルレアリスムに大きな影響を与えた人なんですよ。それが『箱男』に何の関係があるのかというと、デ・キリコの作品、特に形而上的絵画とか呼ばれるような作品群には西洋絵画の大発明である遠近法をわざと崩して消失点を複数作り出すような手法が取られていたり、また形而上的室内と銘打たれた連作には室内(つまり家の中)にジオラマのように家が配置されてるといった突飛な画が多いんですね。そこにはまず第一に絵画というフレームの中に納まる表現の中でさらに室内という枠の中の空間が描かれるのだがそこにもう一捻りでまた外枠としての家を描いちゃうという二重三重に誂えられたフレームの内と外を鑑賞者に想起させるメタフィクショナルな構造になっているんですよ。やっと本題に繋がったが、そしてそれはこの『箱男』も同じだったと思う。
本作を観た人なら分かると思うが、この映画で描かれていることはその内外を隔てているものと、そのどちらか一方に属すこと、あるいはそのどちらにも属せないことによる自我の揺蕩い方であると思う。それは理路整然とした遠近法や内と外にハッキリとした境界があるような世界ではない。どこまでがこちらでどこからがあちらなのか曖昧な世界である。だがそんな曖昧な世界で生きていくには人の自我というのは脆弱なものなので、こちらとあちらを隔てて安心するために箱が必要になるわけである。そしてその箱の中ではデ・キリコが描き出すような曖昧な世界からは逃れることができるだけでなく、そんな世界を一方的に観察してその様を手記に記すことによって「俺だけはあんな訳の分からない世界で自分を失わないで済む」という安心とも愉悦とも言えるような安堵に浸ることができるわけだ。
それはまるでインターネッツが生み出した現代最先端のコミュニケーションの場であるSNSのようであもある。Twitter(現X)なんかが一番分かりやすいが主に半匿名(実名で顔出ししてる方もおられるが)で自身の姿を隠しながら、だがしかし他人の生活や嗜好や思考を盗み見たいという欲望は作中で描かれる箱男そのものではないだろうか。しかもご丁寧に手記を書くことが箱男にとって重要であるということまで語られるので、基本的にテキストベースなTwitterのようなSNSにはモロに刺さるのではないだろうかと思う。つまりアイデア的には多層的でシュールな表現を用いながら、自己と他者の内外やコミュニケーションの内外を描いた作品が映画版の『箱男』と言ってもよいであろう。そう間違いではないはずだ。
ま、それは最初に書いたように面白かったですよ。しかしぶっちゃけネタとしては原作発表時には当然無かった現代的コミュニケーションとしてのSNS要素とかがありつつも、わりとベタだよなとも思う。本作は一度90年代半ばくらいに企画があって撮影直前まで進んでいたものの資金的な理由なのかどうかは知らないが頓挫され、結局最近まで封印されていた企画のようなのだがその90年代半ばなら似たようなテーマの作品としてかの『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』こと『旧劇エヴァ』がある。ていうか多分石井岳龍は『旧劇エヴァ』を多少は意識したんじゃなかろうか。いやだって後半かなりそのまんまなシーンあるじゃん! 箱男VS箱男も使徒VS人類的なとこあるじゃん! まぁ石井岳龍が意識したかどうかは知らんが、これはエヴァ世代の俺にとっては「エヴァじゃんこれ!?」ってなりますよ。まぁ『エヴァ』が『箱男』に似ているというよりは庵野が安部公房的エッセンスを一部継承していたと言う方が正しいのだろうが!
まぁそんなわけで個人的には安部公房&石井岳龍&庵野秀明みたいな感じでそこに共通するものとしてのアングラ感が凄くいい感じの映画でしたね。そういう空気感が好きな人にはたまらないのではないだろうか。あとは上記したようにこちら側とあちら側を往還するような表現の中にある現代的なSNS文化への皮肉もよい。Twitterを例に挙げたが本作では正に個人名のない肩書や人称(わたしやニセ医者や軍医など)を持った人物ばかりの中、一人だけありのままの名を背負った生の人間が登場して、その人は箱の中に籠ったりせずむしろ自身の裸体を晒すのも厭わずに生きているというのは面白かった。面白かったが、これもまた上記したように上手くSNS文化の中にハマったからいいけどテーマ的にはさして新しいものではないしそこまでグッとくるというほどではなかったかなぁ、とも思う。庵野はかつて『旧劇エヴァ』で「アニメばっか見てんじゃないよ、ビョーキになるぞ」と言ったのに対して石井岳龍は「SNSばっかやってんじゃないよ、ビョーキになるぞ」と言うわけですね。実に身につまされる。
まぁその辺の既視感はありつつもトータルではめっちゃ面白い映画でしたけどね。特に意外なほどに外連味の効いていた箱男VS箱男は最高だった。回転しながら戦う箱男には妙な迫力がありつつも滑稽で、これはすげぇ良かったですね。面白かったです。