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幕末太陽傳のKKMXのネタバレレビュー・内容・結末

幕末太陽傳(1957年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

日本映画史に残る喜劇の傑作とのことですが、実際とても爽快な名作でした。
正直、ギャグセンスは小津とかの方が現代的だと感じますが、本作に通底しているカラっとした疾走感は、娯楽映画の気持ち良さを存分に感じさせてくれました。

本作は、9割のスピーディで粋な爽快感と、1割の心臓を掴まれるような重苦しさで作られているように思います。その背後には、死への反抗力を感じたりしております。

主人公・居残り佐平次にフランキー堺を配しただけで、本作の成功は約束されたようなものです。すげえスピード感とリズム感。さすが元ジャズドラマーです。他の俳優陣が2〜4ビートで動いている中、フランキー堺だけは16ビートで動いてますからね。グルーヴが違います。
顔芸も達者で、一瞬素に戻るときの冷徹な表情はなかなか怖い。佐平次という男の、深い絶望みたいなものを感じさせる演技でした。

ヒロインのおそめとこはるがかなり現代的な美人であり、飯炊き女・お久も可憐な美女なので、華やかな楽しさもありました。
当時のアイドル・石原裕次郎も高杉晋作を存在感たっぷりに演じてました。裕次郎はかなり大根演技でしたが、この隙のない喜劇の中ではそれが良い箸休めになり、プラスに働いていたように感じます。

大規模なセットと、大量のエキストラを投入した常に賑やかで猥雑な雰囲気も、本作の明るく痛快なノリを作り出していると感じました。


一方、重苦しい死の臭いも本作のもう一つの特徴です。そっちが本作のガチなテーマだと思います。監督・川島雄三は本作のテーマを『積極的逃避』と語ってますが、死・運命からの積極的逃避なんでしょうね。

主人公・佐平次はどんな揉め事も鮮やかに解決する連戦連勝の天才ですが、労咳を病み、どうも余命が限られているようです。
成功なんて、死から見れば正直無意味です。たまに見せる佐平次のニヒルな表情は、まさにそのことを喝破しているように感じます。

佐平次は死から逃げているように見えます。彼の目的は金を貯めてアメリカに渡り労咳を治すこと。これがどれだけ現実的なのかは不明ですが、実現しないと解っていながら希望にすがっているようにも思えます。
万能の天才も、死の黒い手からは逃れられないのでしょうか?

終盤に、連勝の佐平次についに土がつきます。相手は田舎者の親父。佐平次とは真逆の凡庸なおっさんです。
彼の描写はこれまでと一線を画していました。おっさんが田舎訛りで正論を語っているとき、顔がどんどんアップになっていったのです。アップになってからもさらにどアップになるなど、こちらもちょっとした恐怖を感じました。
そしてラストは唐突に墓地に行きます。この異様な流れから、この田舎者の親父は死神なのだと感じました。逃れられない運命の象徴です。
しかし、佐平次は逃げる。ラストは親父を毒づき、街道を走り去ってエンドとなりました。

正直、このラストは弱いな〜と思います。ホント弱い。負け逃げって感じ。結局、佐平次も死から逃れられないことを示唆しているだけのように思います。


が…しかし!
このラストは本来、川島雄三が意図していたものではないのです。
彼が希望していたラストは、佐平次は撮影所から抜け出し、現代の品川を疾走する、というものでした。

もし、このラストであれば、ホドロフスキー師匠レベル、K点越えの大傑作だったでしょう。メタフィクションと評されたかもしれませんが、個人的には、この幻のラストはマジックリアリズムだと感じます。すなわち、表面的な普通の現実以上の真の現実、心的現実です。
時空を越えて佐平次は逃げる。それすなわち運命の超克です。本作のラストのようなただの逃避ではしょせん逃げられない。しかし、時空を超えるレベルの『積極的逃避』であれば、そのエネルギーは宇宙を突き抜け、新しい地平に辿り着くのです。

川島雄三はこの時、進行性の病に冒されていました。佐平次はまさに川島雄三その人です。
ここで川島雄三は佐平次に思いを託し、死を越えたいと願ったのでしょう。運命は変えることができませんが、運命に対峙する態度を変えることはできます。宇宙に届くエネルギーを表現できたのであれば、何かが変わったでしょう。


私はキッズのころに『栄光なき天才たち』というマンガを愛読していました。第10巻に川島雄三の物語、まさに幕末太陽傳の物語が描かれています。もうじきクランクアップ、いい雰囲気で進んでいたところ、監督の川島雄三が突如、ラストの変更を宣言します。
「佐平次は逃げ出すのです!彼方へ!」

しかし、助監督の今村昌平やフランキー堺が反対します。その結果、川島雄三はこの案を断念します。
その後、幕末太陽傳は封切られ、その年の映画ベスト4の作品として評されます。しかし、川島雄三は浮かない顔でこう述べます。
「また、誤解されてしまいました…」

少年時代に『栄光なき天才たち』と出会ってから、私も長い時を越えて、ついに本作を鑑賞しました。その結果、やはり川島雄三は『栄光なき天才』だな、と実感しました。
おそらく、栄光ある天才たち(黒澤、小津、宮崎、庵野etc…)ならば、妥協はしなかったでしょう。例え反対されても自らの核となるものをガチっと表現すると思います。
この、最も大事な一番で自分を抑えてしまったのが、栄光ある天才と栄光なき天才を分けたのかな、と思いました。


大傑作となり得たのに、至ることができなかった実に惜しい映画だと思います。しかし、それも含めて実に味のある名作でした。
私自身も、小津や黒澤、ジャームッシュやホドロフスキー師匠たちよりもはるかに早く出会っていた本作を、新年1発目に時を越えて鑑賞できたのは、すごく幸先の良い体験でした。
おかげさまで、1発目から今回もクソ長い感想文になってしまった(涙)

こんな感じですが、皆様、今年もよろしくお願いいたします😄
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