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まひるのほし 4Kのzhenli13のレビュー・感想・評価

まひるのほし 4K(1998年製作の映画)
4.0
武庫川すずかけ作業所の舛次崇さん、工房絵の西尾繁さんと川村紀子さん、信楽青年寮の伊藤喜彦さんの作品は以前から目にしていた。
就職したころ人から誘われて「エイブルアート」のシンポジウムに参加したことがあるが何となく違和感を覚えた。本作が公開されたころだ。その後も「障害のある人のアート」という捉えの活動に対して違和感がどうしても拭えず、距離を置くようにしていた。
当時は、障害のある人の作品は「慈善事業」「福祉」の範疇での扱いがほとんどだったが、アウトサイダーアートが日本の美術館でも紹介され、その流れでエイブルアートという概念が出てきたが、従来の扱いもそれも、どちらもうーーんという印象。「アート」という日本語もあまり好かん。

障害のある人の表現活動(本人が表現活動として認識していないものも含め)は、誰かに「発見」され、「社会」に注目されるかたちでのプロデュースというかコーディネイトが必要になる。
本作でいえば、西尾繁さんが最たるものだ。彼が執拗に送り続けた手紙は、彼一人で作品展示に結びつくことは無かった。手紙を作品として壁一面びっしり展示したのは工房絵の施設長 関根幹司さん(超低音イケボ)の発案であるし、段ボールを使ったセンスある展示方法で、喋りまくる西尾繁さんを撮ったビデオの上映も、工房絵の職員のアイデアだろう。

こと知的障害のある人たちやASDなど発達障害のある人は、いわゆる「健常者と言われる人たちがマジョリティとなる社会」の基準に合わせるのが難しかったり意思を伝えづらかったりする。彼らの行為に意味づけやコーディネイトをする人、額縁をつける人、メディウムとなる人があって、彼らの「アート」は成立するようなのだ。そのメディウムは必ずしも本人が欲することではないし、別に好き勝手にさせろと思うかもしれないけど「健常者と言われる人たちがマジョリティとなる社会」で生きてくための手段としてときに有効だし、生かすも殺すもメディウム次第。やりようによっては潰されてしまったり台無しになってしまったりすることもある。その評価は本人にも影響するからだ。
自分が発したものが関心を持たれ、認められることは、誰にとっても嬉しいし影響する。それは舛次崇さんの画材の使い方を見ていてもわかる。指導者であるはたよしこさんのアドバイスを受けた画材や描画方法をおそらく彼は取り入れている。出来上がった作品を褒められ嬉しそうにフィキサチーフをかけている。発することの衝動が必ずしも他人の承認を得ることが目的では無くても、やはり嬉しいし、自分を満たす。西尾繁さんの場合は、手紙が作品として展示され認められることで行為は昇華され、執拗に手紙を送り続ける「こだわり行動」をやめた。

西尾繁さんとお父さんと二人暮らしのシーンがあり、繁さんは家事もしっかり仕込まれている様子が窺える。お父さんは大樽で白菜を漬けている。
買ったパンフに書かれていた、佐藤真監督による西尾家の事情。繁さんのお母さんは自閉症の彼の将来を考えて厳しく勉強を叩き込んでいたらしいが、長じて街頭で「女子高生が好きなんだ」「ぼくをシゲちゃんと呼んでほしい」などと叫び続けるようになった繁さんが要因なのか、自死したらしい。彼の行動問題を監督は「母性愛に飢えて」と書いているが、そうかどうかはわからない。しかしストレスがかかってのこだわり行動ではあろう。

伊藤喜彦さんの作品が野焼きされるシーンがあってわくわくした。さすが信楽。夜まで長時間大量の薪をくべて火を焚いて…うらやましい。いまこんな活動できるんだろうか。90年代末、バブルはとうにはじけていたとはいえまだ何となく余裕がある時代を、井上陽水の曲を使用するあたりでも感じた。
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