何やら予告編では「こんなヒロイン見たことない!」みたいな安易なアオリをしていたのだが、いざ観てみると何ということもない、物語もヒロイン像も特に斬新! ということはまるでなくて二番煎じどころか三番煎じどころかもう何番目か分かんねぇよ! というくらいには既視感の塊でしかなかったけど、まぁそれなりには面白かった『ナミビアの砂漠』でした。ちなみに映画の内容はありふれたものではあるものの『ナミビアの砂漠』という本作のタイトルはちょっと風変わりな印象を受けるが、これはYouTubeでナミブ砂漠にある国立公園の人工水場に群がる動物たちの姿をライブ配信しているチャンネルのことであろう。確かコロナ禍の頃にそのライブ配信が始まったと記憶しているが、俺も一時期は一日中流しっぱなしにしたりしていた。いや、水辺に集まってくる動物たちが時間帯によってガラッと変わって垂れ流していると中々に楽しいライブ配信なんですよね。
ま、その実際にあるライブ配信に関しては後述するとして、お話は東京の脱毛サロンで働いているカナちゃんが二股かけて男の間を行ったり来たりしながら満たされない気持ちと名状しがたい怒りを抱えて刹那的な行動を繰り返しながら果てには精神も病んじゃうんだけど、まぁそれでも何とかなるんじゃない? というお話ですね。
たったそれだけのお話しなので斬新もクソもなくて今まで掃いて捨てるほどあったようなお話しだろうとしか思えないが、何か斬新なものとしてウケているみたいですね。まぁでもそれも分からなくはないというか、配給会社などの映画を売ってる方がそういう風に令和という新世代を生きる若者たちの心情を鮮やかに描いた新たなるバイブル! みたいな文句で映画を売るのは理解できる。商売だからね。んで肝心の映画は特に新しいものがあるわけではないものの、現代の若者の気持ちをビビッドに描いて共感を感じ得るような作りにはなっているので本作を観た若者たちが「これ私のことだ!」と思ってもおかしくはないだろうとも思う。多分俺が20歳くらいのときに本作を観ていたらこれは我々の映画だと絶賛していたんじゃないだろうか。
なのでまぁ本作を観た観客たち、特に若い層が絶賛するというのは分からなくもないのだが、いい年こいて相当数の作品を観ているはずの映画評論家とかが過剰に持ち上げていたら(あぁ提灯だな…)と思ってしまうような出来の映画でしたね。大体が本作に於いて一番持ち上げられている部分として河合優実演じる主人公が新たなる現代を象徴するヒロインである、という部分があるが、男を頼って生きているわけではないがその反面常に男を必要としていたり、自身が女であるという事実に規定された生き方はしたくないと思いながらもその枠内でしか生きられず、それらの矛盾した気持ちがその時々の気分で混ざり合い衝動的に生きるしかできないまま自身も身近な他者も巻き込んで病んでいってしまうという人物像は映画に限らずに言えば岡崎京子が30年以上も前に自身の作品で何度も描いたヒロインそのものである。もっと遡れば(おそらく岡崎京子も影響を受けたであろう)アニエス・ヴァルダにも行き着くだろう。そんなヒロイン像なんて新しくもなんともないんですよ。では岡崎京子が新しかったのかとそんなこともなくて、本作を評する際によく言われる“若者の今”なんてものは実は時代は違えど中身は同じなのだ。
例えば上記したように本作のタイトルが示すものはYouTubeでのナミブ砂漠での動物映像の配信なのだが、それはそのまま主人公の姿にも重なるものでもあって、要は本作の主人公は限りなく動物的な人間だということだと思うんですよ。ここで重要なのは動物的だが人間、ということで彼女が脱毛サロンで働いているのもそのことを示しているのだと思う。毛なんかいくら剃っても生えてくる(動物だから)のに人間の美的感覚に基づいてそのアニマルな習性に反するように毛を剃り続ける。どこかで(こんなのバカバカしいなぁ)と思いながらもそれは仕事として人間社会の中で生きていく手段でもあり、女としての自分のアイデンティティの一部でもあるのだ。ナミブ砂漠で生きてる動物たちなんて毛がボーボーなのにね、というところであるのだがそれは同僚との整形トークからも明らかに人と動物を対比して描いている部分であろう。もちろんセックスに対しても本作はその姿勢で描かれるし、セックスと同様にある意味での密なコミュニケーションとしての喧嘩というものも同様である。人間性と動物性の境界を意識させるような描き方をしているのだ。でもそれ、すでに書いたように岡崎京子がもっとも得意としたようなヒロインの描き方で、例えば『ヘルタースケルター』では主人公はタイガー・リリィという名で呼ばれて美容整形が物語の中核にありセックスも喧嘩も含めた人間関係はどれもエキセントリックで衝動的かつ動物的な態度で破滅的な人生を突き進むのである。ほとんど同じじゃあないか。でも上記したように岡崎京子だって全てがオリジナルなわけではなくて、同じことを描いた作品は山ほどあるんですけどね。
なので個人的には本作『ナミビアの砂漠』は岡崎京子の縮小最生産であり、もっと嫌味な言い方をすれば劣化版だなとしか思えなかった。監督が岡崎京子を参考にしたかどうかはどうでもよくて、知ってる人はそう思うんじゃないかなってだけではあるが。でも最初に書いたように別につまんない映画ではなかったし、先人と似たような作品を作ってはいけないということは全くないので別にいいと思いますよ。繰り返すが俺が10代後半とか20歳くらいで過去の似た作品を何も知らずに観たら、これは今の時代を生きる自分たちの映画だ! と思ったことであろう。つまり、そのように作中の登場人物と同じくらいの世代の人間の心をガッツリと掴むことはできるであろうというくらいにはよく出来た作品なのである。
また、本作の監督は若干27歳らしいがその年齢でこのような映画を撮ることができたということも素晴らしいと思う。これは皮肉でも何でもなく本当にそう思う。だってこういう映画は30代も半ばになるともう撮れないですよ。だってこんな作品いくらでもあるよな、って冷めた目で見ちゃうもん。恥ずかしくて撮れないって。でもそうはならずに勢いで作り上げることができたってのはやっぱ若さの勝利だし、それを以て同世代に圧倒的に支持されているのだとしたらそれこそが本作のもっとも優れた部分だろうと思う。なので、まぁその勢いがいい映画なんじゃないですかね。その良さが主に共感であるというところが個人的には舌打ちしちゃうところで、またもや引用する岡崎京子は「私を入れてくれるクラブに私は入りたくない」を地で行く作品を描き続けていたのでそこの良さはないのかぁ、と思ってしまいましたが。
ま、そんな感じでしたね。しかしこれはいつも言ってることだが尺が長すぎる。この内容なら100分でまとめられるでしょう。それくらいの尺でビシッと締めてくれてたらもっと評価は高かったかもしれない。あと喧嘩シーンの天丼は馬鹿馬鹿しすぎて笑ったね。あそこはアニマル感全開で面白かったですね。ま、取り敢えず生きていきますよ、何とかなるでしょ、よく分かんないけど、っていう終わり方も嫌いではない。狙ってるんだろうけど、そういう意味では本当にナミブ砂漠の定点カメラで描かれる動物を眺めてるような映画ではありましたね。でもやっぱ主人公が病んでるなぁ、と思うのはそのライブカメラの映像でキリンが映っても、彼女は眉一つ動かずに死んだ目でスマホの画面を見てるんですよ。一時期同じライブ配信を見ていた俺に言わせればあの配信でキリンが映るとか超レアだからな!! 普段は8割くらいオリックスで(もういいよオリックス…お前ら帰れよ…)って感じでシマウマがちらっと移っただけでもうおー! シマウマキター! ってなりますからね。それがキリンと遭遇できるだなんて…もう一週間くらいはニコニコで生きていけるというのに主人公は無反応ですからね。俺にしてみりゃ、お前病んでるよ、って感じですよ。
そんなとこです。役者陣は全員良かったです。