ニトー

シェナンドー河のニトーのレビュー・感想・評価

シェナンドー河(1965年製作の映画)
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喪失と再起の物語。

喪失の象徴としてのジェームズ、アン、ジェイコブの死、再起の象徴としてのボーイの帰還。

ボーイの帰還は父であるチャーリーが息子を殺したボーイと同い年の16歳の少年兵士を赦したからではあるのだけれど、赦しというにはあまりにも怒りを湛えたものだった。


ジェームズ役のパトリック・ウェインがヘンリー・カヴィルに似ていて、つまりスーパーマン的人物が残り娘であるジェニーがボーイの回収に同行したり、夫のサムが助けられる側というのもジェンダーロールが逆転していて60年代のアメリカ映画とは思えない感じ。この辺はあまりフィーチャーされないのが物足りませんが。

まあそれを言ってしまえば、ジェームズ・スチュアートのあの戦争に対するスタンスというのも、中々見かけないタイプではあるとは思うのです。

けれど、これは伊藤の指摘したような逆セカイ系的な路線であり、つまりセカイというのは個と繋がっているわけで、まして自国同士の戦争の渦中にあって知らぬ存ぜぬでいられるわけもなく。

それが至極真っ当で誰もが抱く正論であったとしても。



奴隷制の下から解放された黒人少年のガブリエルが、その制度の名の影響下にあってボーイとの交友を育んでいたからこその、そして二人の背景を全く描かなかったからこそのあの純粋な友情のシーン。欺瞞的とも言えるのかもしれないけれど、あの状況下にあって敵軍であるボーイを救えるというのは、やはり友情のなし得るものでなくてなんなのだろう。「ハクソー・リッジ」におけるアンドリュー・ガーフィールド的な狂気的な聖人性に寄って立つものでもないのだから。

まあ、スパイク・リーとかはあまりいい顔しなさそうではありますけど。

ボーイは言う「人を撃ったことがない」と。
それに対して投げかけられる言葉は「敵は知らんさ」という非情なもの。
けれどガブリエルは知っていた。だからこそボーイは生き延びた。

徹底的に他者化を行うことで殺人を正当化する戦争という状況にあって、二人は人種的な壁や南北という隔絶を乗り越える。



帽子とか少年兵のくだりとか、何気に伏線を上手に回収していたりするあたりも上手い。

書割に見えるような牧歌的な背景の歪さやジェームズを刺し殺した剣をずって階段を上るカットとかゾクゾクするような恐ろしい画作りも際立っていて、中々どうして素晴らしい作品でござんした。
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