アニマル泉

絞死刑のアニマル泉のレビュー・感想・評価

絞死刑(1968年製作の映画)
5.0
1958年に起きた小松川高校事件を題材に死刑執行の是非を問う大島渚の野心作。リアルな処刑場のセットを作り密室劇と妄想が大胆に混在していく。6つの章で構成される。①Rの肉体は死刑を拒否した。②RはRであることを受け入れない。③RはRを他者として認識する。④RはRであることを試みる。⑤Rは朝鮮人として弁明される。⑥RはRであることに到達する。
冒頭に死刑執行の段取りが詳細に説明される。そしてR(尹隆道)は処刑されて死なない。この設定が秀抜だ。執行官たちは喧々諤々の議論になり、死刑をやり直すためにRの記憶を取り戻さなければならないハメになる。なんともシュールな展開だ。Rは自分が誰だか判らない。執行官たちが事件を再現する。Rは自分が本当にやったのか確かめるために自分で再現したいと提案する。Rが自らの犯行を執行官たちに暗示、誘導されながら再現していく。場所は処刑場からリアルな犯行現場に変わる。妄想の現場検証だ。高校の階段をRが駆け上がると執行官の集団も駆け上がり、屋上を一斉に集団が走っていくのが可笑しい。妄想のなかではRに代わって教育部長(渡辺文雄)が女の首を絞め殺して犯す。それをRが見ている。この立場の逆転がポイントになっている。妄想の検証が終わると処刑室に姉(小山明子)が現れる。姉はRに在日コリアンの誇りを持てと叱咤する。虐げられた日本への抵抗は犯罪しかないのだと主張する。執行官たちは姉が見える者と見えない者がいる。Rと姉の禁断の愛。川岸をRと姉が転げ落ちていく。ブレッソンの「少女ムシェット」のラストシーンみたいだ。夕陽の逆光の川中で抱擁するRと姉。再び処刑場。Rと姉は日の丸に包まれて裸で寝ている。結ばれない姉との愛をRは初めて認める。そして妄想と現実が混在したままに姉を求めて二人の女を殺したことを認める。自分はRである。しかし主文に書かれた動機で犯罪を犯したのではない。それは本当の自分ではない。偽りのRとして誰が自分を処刑するのか?国家が自分を殺すのか?ならば国家とは誰か?見えない者に殺されるのは嫌だ。Rは自分のように曖昧に死刑執行される全てのRたちの抗議を引き受ける。死刑執行に抗議するために、国家に処刑される。
「円」の映画である。二つの「円」が頻出する。一つは日の丸である。検事(小松方正)の背後に日の丸が掲げられ、Rと姉の身体を日の丸が包む。もう一つはもちろん絞死刑の首輪だ。「在日コリアンと犯罪。二つの問題の極まるところは国家である」と大島は言う。小松川高校事件ではメディアが犯人の異常性格報道に加熱して、貧困、偏見、差別という根本の問題が蔑ろにされた。Rが最後に処刑された時、示されるのは揺れている空の首輪である。Rは消えている。日の丸と首輪、二つの円が見事に重なって本作は終わる。
大島組では最初から脚本家、俳優、スタッフが参加して映画を作る。本作では教誨師(石堂淑郎)保安課長(足立正生)検察事務官(松田政男)が役者として参加している。大島曰く「ゲバラたちと作る勇敢な映画作りの結実」である。
大島の「宙吊り」「階段」の主題を突き詰めたい。「春歌」の主題はますます不謹慎に響いている。撮影は長回しが多い。Rだけアップのリフレインで描かれる。
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