家へを配信している動画配信サービス

『家へ』の
動画配信サービス情報をご紹介!視聴する方法はある?

家へ
動画配信は2025年11月時点の情報です。最新の配信状況は各サイトにてご確認ください。
本ページには動画配信サービスのプロモーションが含まれています。
目次

家へが配信されているサービス一覧

『家へ』が配信されているサービスは見つかりませんでした。
代わりに似ている作品として1件の配信作品が見つかりました。

家へが配信されていないサービス一覧

Prime Video
U-NEXT
DMM TV
Rakuten TV
FOD
TELASA
Lemino
ABEMA
dアニメストア
Hulu
Netflix
WOWOWオンデマンド
アニメタイムズ
Roadstead
J:COM STREAM
TSUTAYA DISCAS

家への作品紹介

家へのあらすじ

ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)の近作に多く出演しているアノンが、故郷であるラオスの村に帰省する様子を捉えたドキュメンタリー作品。アノンが実家で過ごす様子と共に、家屋などの多くの建造物や、現地の職人たちが仏像を彫る様子などが映像におさめられている。

家への出演者

Anong Houngheuangsy

原題
Back Home/回家
製作年
2025年
製作国・地域
台湾
上映時間
65分
ジャンル
ドキュメンタリー

『家へ』に投稿された感想・評価

4.3
 3連休の中日に観たが、これが純度100%のツャイ・ミンリャンと呼びたくなるほど近年のフィルモグラフィの中でも凄まじく、圧巻の内容だった。上映時間はおよそ1時間強。ほぼすべてが定点・長回しで構成され、字幕もナレーションもない。この作品には脚本がなく、セリフも極端に少なく、音楽も一切つけていない。その理由として、監督は観客に音と画面に集中して欲しいと語った。静止気味のショットの中に、アノン君がラオスで見て経験したものをそのままパッケージングしているのだ。冒頭、暗闇の中を走る車内バスのショットから始まるのだが、実はツァイ・ミンリャンはワン・ビン作品を観ているかもしれない。窓の外を街灯や道路標識の光が流れていき、その座席で、ラオス出身の俳優アノン・フンフアンシーが眠っている。彼はツァイ作品の近年の常連でもある。リー・カンションは今作ではプロデューサーに回り、21世紀の新たなミューズとしてアノン君はフレームの中に佇む。次に現れるのが、地元の小さな遊園地。チェーンで吊られたブランコ型メリーゴーラウンドがぐるぐる回り、その真ん中に一匹の犬が取り残されている。犬は端まで走っていっては子どもたちに押し戻され、必死に抜け出そうとしても外に出られない。ここでいきなり長尺のショットが続き、観客は「なぜこんなものを延々見せられているのか?」という違和感と、犬への不安を同時に味わう。

 以降、映画の大半はラオスの農村部を俯瞰する風景見本帳のような構成になる。高床式の家々。木材や竹、レンガ、トタン板で継ぎはぎされた住居。ペンキがまだらに塗られた家、傾きかけた家、建設途中で止まった家。窓やドアが板で打ち付けられ、中身の見えない空き家。カーテン一枚で仕切られた室内。家具はほとんどなく、生活感は極端にミニマルである。ツァイのカメラはほぼ水平には構えられず、建物がわずかに傾いてフレームに収まる。その微妙なズレが、帰郷であるはずの風景をどこかよそよそしく、不安定なものとして感じさせる。いかにも『原子心母』かKLFかという放牧される牛の長回しショットの後、干し草に身体の半分を埋めた子牛のそばを、アヒルのヒナが通り過ぎる。牛の足元を、鶏がのんびり歩く。中年女性たちが並ぶ青空市場。野菜が積まれ、客とのやりとりが遠くのざわめきとしてだけ聞こえるといった農村の日常が、ほとんど人のアップを伴わないまま積み重ねられていく。アノン本人は、実は映画の中にほとんど登場しない。画面にしっかり姿を見せるのは二度だけだ。ひとつは冒頭の夜行バス。もう一つは、終盤近く、家族と一緒に食事の支度をする場面。台所のような場所でアノンが中腰になり、野菜を刻みながら女性の家族(母か姉と思われる)と談笑している。何を話しているのか字幕も説明もないが、身振りや距離感から、ごく親密な日常の会話であることだけが伝わる。

 中盤のハイライトのひとつが、道路脇で仏像を彫る男たちのシーンだろう。完全防備の作業服に身を包んだ男たちが、路肩に並んだ石のブロックを、電動ドリルとノミでひたすら削っていく。素体の石、半分だけ形の見えてきた仏、金色に塗装された完成品までが一列に並び、その後ろには埃っぽい道路が続く。観客は最初、遠くから聞こえる激しいドリル音を「どこかで高層ビルでも建てているのか」と思うが、やがてそれが仏像を作る音だと気づかされる。このギャップが、聖と俗、信仰と商業の奇妙な混淆として印象に残る。完成した仏像たちは、その後、何の説明もなく、民家の庭や路傍にぽつんと置かれているショットへ切り替わる。冒頭の帰郷へ向かう夜行バスと、ラストのどこか匿名的なベッドルームとは、緩い往復運動のような構造を有する。ツァイ・ミンリャンはラオ語もタイ語も話せない。一方のアノンは中国語を話さない。言葉の断絶を前提に、2人はほぼ無言のまま旅する。そこでカメラが頼るのは建物の傾き、動物たちの動き、風や水の音、遠くの機械音といった非言語的な手がかりに他ならない。重ねて申し上げるならば、ツァイ・ミンリャンはマレーシア生まれの台湾系で、アノンはラオス出身でタイで出稼ぎ中である。劇中の村は、美しいが経済的には希望が少なく、若者が都市へ出て行かざるを得ない場所という二重三重の移民/ディアスポラの構図が重なる。たった2週間の撮影でクルーも最小限とし、撮影はおそらく小型のキヤノン製ハンディカムとライカのカメラのみで作られた結晶を監督は手彫りの映画と呼ぶ。無駄な演出や着色が一切なく、映像そのものはダイレクト・シネマや純粋映画にも近い。恐ろしいレベルにまで達している純度100%の映像体験である。
たむ
4.0
東京フィルメックス特別招待作品のツァイ・ミンリャン監督の新作です。
劇映画から引退して、たどり着いたスロー映画といいますか、旅映画の極致へ向かいます。
本作で突出しているのが、オープニング近くでの遊園地の遊具から脱出できないワンちゃんの長回し。
こんなにスリリングな映像は久々だな、と思うほど、ハラハラしました。
このシーンだけでも観てよかったと思いましたね。
✔️🔸『家へ』(3.7)🔸『ヴァリエテ』(4.1)🔸『追い詰められた男』(4.2)▶️▶️ 


 蔡の映画は、商業映画引退の後も、限られた馴染みの俳優を台詞無しの佇まいだけで使うだけで、ストーリーや視覚スペクタクルから真逆の、シンプルで本質的な映像作品を、興行を外れた場で見せているが、精進料理みたいなだけでなく、豊かさが直に伝わってくる作品群で畏れ入る。
 本作は、序終を除いた50分強しか観てないが、かなり魅力的かつ一貫した力を持つ作品だ。たまに寄りや角度変もあるが、多くFIXのワンシーン=ワンカットの、東南アジアの辺境の寂れた町か村かの、人間のウェイト高くない図が並べられるだけの作。窓からなど人の姿も見える時あるが、多く廃墟のような、床を持ち上げる柱に支えられた屋根などのトタンは錆び造りが半分壊れたような、家が次々に羅列されてく、だけが続く。しかし、家畜の牛や鶏はウロウロもしてるし、カラフルな綺麗なうちもあるので、廃れた村というだけでなく、こじんまりと生活も伴ってるうちが過半なのか。そのうち、脇の道路を疾走バイクや、中は写真が飾られ、真新しいカーペットが敷かれてたり、食器・家具が周りにある中で野菜を剥いて談笑してる家人も収められてくる。さらにカラフルでもある衣装も多い沢山の人が行き来する、路上の市が賑やかに開かれてる図も入ってくる。その中で賑わいとは縁なく、無心一心・求道的を感じさせながらの、石を彫る仏像作りが、多く長く様々に連ねられてく描写に入り込む。主題が有るようで無さそうな本作の、あえての核を彫り当ててく、映画自体でも作業のようなパートだ。労働・日常・性とも距離を出し続ける。
 何なのか、というと後で調べると、作者の一貫した分身的俳優の、近年の補助者的若い俳優の、生地ラオスの田舎への帰省光景らしい。様々な生と死の予感が、虚飾無く流れてる。スタイル・対象選択の、静謐さと徹底は似た作もあるが、ここでは死の中に、生がちらつき、併存してるような、地域の過疎傾向を超えた、不思議ないのちを感じる。傑作とは言えまいが、いい印象を貰う。いつか、伝説になりかけてる冒頭犬絡みを含め、未見部から全編を見通したい。
………………………………………………
 半世紀ぶり、上映フィルム回転数をオリジナルに近付けやや鈍くした『ヴァリエテ』の方を観たのは、10代の頃のシャープでフレッシュな印象を確かめたかったからか。当時のノートを観ると、モンタージュとまでは行かないとしながらも、主観揺れやカメラ動き・カット切り替の鋭さに、スッキリ惚れ込んでる。あと同時期観た作だと、トゥルヌールの最高傑作『ウーマン』らも再見したい。
 上映速度を鈍くしたり、字幕が付いたせいか、スッキリ落ち着いた腰の据え方を感じ、この後も秀作を撮ってる名監督に改めて、敬意、と言ったところか。サーカス会場他の、観客を押さえての空中ブランコ曲芸など、黒バックら多いことでの隙のない合成かと思われる程、絵にブレや変なドラマを越えた臨場感がなく、表現に自信があり、寄りから全、角度切り替、戻りらのカッティングも、ハラハラよりも、安定した腕前・力量を感じる。ヤニングスの全盛時代か、ドイツを超えて世界の、イメージだ。アクの強さを嫌がる人も多いが、この作品など、作品の統制を越えてなくて、疑心から殺人に至る思い詰めも、恐いが浮き上がってはいない。相手の大スターに対しての、曲芸中も秘めてるのだが、日常生活での勘の触り方も、細かく事実認定には早すぎるが、分かる。そしてその時点では正対する切返しよりも90゜変の切返しが主だが、殺人に至る所では逃げ場のない正対の切返しアップとなる。かなり客観性を持った描写で変に入っていってなく、かなり見事。今年ルビッチの特集をやる時、映画博士が「全部やるぞ」というので、「『愛国者』は?」と聞くと「勿論」との答え、色めき立ったが、プリント発見さるはやはりガセだった。ヤニングス幻の頂上は拝めなかった。
 みすぼらしい孤児の少女を育てると、見事な空中ブランコのパートナーとなり、自分と同じ中年の妻とも別れ、公私を共にするようななるが、自らのサーカス団は不景気で解散へ、となる団長。しかし、彼女の才能や輝きに目をつけた、大人気スターと3人組の芸が転がり込む。自分と違い、いかにもいい男で羽振りや流し目も板に着いてて、明るく愛想の良くなった女との間に妄想が一方的に渦まいてく。
 話は、刑務所の所長が、刑期短縮や妻の嘆願を話し、事件の実状を話させ、嵌まりすぎたなとなだめるので、序終が重く神妙に括られてはいる。
 先の人とは違う現在の映画王からつよく薦められてた、仏実験映画は約半数を観たに留まったが、それでもかなり苦痛で、過半は煮えきらぬ姿勢にちとうんざりし、若い頃に単純に好きだった物を割り込ませたくなった。その為に前売り買ってた、蔡の作も半端な見方となったが。とにかく、後年の米映画を含め、デュポンは素晴らしい世界を持っている。
……………………………………………
 『追い詰め~』。これは4年前に過ぎないが、やはり懸案の作だ。感想文が消えたのだ。P・ローレの渾身なのか、不可解なのかの、紛れもない大傑作については、4年前の旧作ベスト5に入れ、文章も残していた筈だが、これも同時期かのドコモショップのアップ直前数十件消しの中に入ってたのか。観終わって当時の感想~フォルムの凄さ・信念を中心に~を読んでみようと思ったが、無かった。
 やはり、相当の傑作にしてもいい作だ。「殺人狂」の神経症的なニュアンスの幅に感嘆し畏れを感ずべきか、第3帝国の医師にして・「光る」目的の内部堕落者の粛清に加担し彼を含め抹殺の動きにいた者との軋轢・共に生残り再会の再度渦巻きなのか、普通映画的には的が絞りきれないが、数人の超一流監督の撮ったような複数のスタイルの各々の完成度は恐るべし。
 長回しめ抽象的な構図・美術での横や縦フォロー、外回りの半円運動を重ねての90゜変の実現動きの才気、加えて必要距離+αの前後移動。大L上空間空きや縦の構図・90゜変の繋ぎや切返しの効果、も光を上乗せす。やがて初の殺人シーンから暫くの細かい角度変・切返しのカッティングの冴えが屹立し、窓越しのどんでん等もその後シーンでは。影の力、闇の力や、音楽から音響の効力が増す場面が、目立たずも変転の才気が続く。鈍くとも最初のスタイルを貫けばとも思うが、一般に観てるファンにも負担をかける事となる。ローレの表情も商業映画と衝突してくるかも分からない。
 難民病院の医師に、看護師候補の男が送られて来て、運命の再会か、互いに二次大戦末期に死んだ・葬ったと思ってて怖がる、また、互いに相手の今や表に出せぬ秘密を知ってる事も、あり。現状維持の看護師に対し、殺人をした、重ねた頃も、隠すより呆然とし、1回目殺した相手の母との同居を続け、2回目死ねなかったのも煙草を吸い残した感が支配したからの医師は普通ではなく、戦後にもう一人を撃ち殺し、ラストは愛犬と離れて、望み遅れ果たしの列車へ飛び込みへ。