仲世朝子『のんちゃんジャーナル』を読んでたら衣裳デザイナーのイーディス・ヘッドのことが出てきたので、久しぶりに観てみた。この前後からのヒッチコックのすごさは言わずもがな。すごいなぁとは思うけど、好きだなぁという作品では無くなってくるように思う。そのすごさに気持ちを傾けられないというか…
一幕一場、『ロープ』のように制限をかけまくった設定で、主人公のジミー・スチュワートも初手から最後まで脚をギプスで覆われて車椅子、映画は一歩も彼のアパートの部屋からの視点を出ることはない。全部セットというアパートの窓とベランダに囲まれた場で、窓というフレームインフレームをいくつも展開させ、縦横にそれを覗く視点を移動させることにより、部屋を一歩も出ないという制限をギミックではなく醍醐味までに高めているので観ていて面白い。
窓から他人の生活を覗くという窃視でしかないスチュワートの行為を、犯罪をあばく合法性にまでこじつけることは、毎回目にも鮮やかなドレス(ドレスも美しいが鶸色のジャケットを脱いだら背中の広く空いたノースリーブのハイネックブラウスという衣裳も素晴らしい)と美貌でアパートに現れるグレース・ケリーという非現実性とセットになっている。
しかもスチュワートの窓から覗き続ける行為ーそれぞれの窓(フレーム)に展開される人々の挙動をみて嘲笑するかのように口元を緩ませる彼の行為の、高みの見物感・優越感は、彼の中で覆されることが実は最後まで無いように見える。たとえスチュワートが覗き続けたことによって相手がその視線に気づき、窓から突き落とされ両脚ともギプスになり物理的に窓外を覗けなくなったとしても。
スチュワートは、自分が覗かれ嘲笑される対象になるとはよもや思っていないように見える。脚が不自由で仕事ができない(世界中を飛び回ることができない)生活は一時的なもの=仮の生活であり、彼にとって、ひとつ処に居を構えて地道な生活を送ることは軽蔑の対象。軽蔑すべき小さな者たちを彼は高みから眺めている。
グレース・ケリーは地に足をつけた生活を彼に望んでいる。しかしどうやらそうなることはないらしい。スチュワートがたとえ両脚を折られてもいずれ世界中を飛び回る生活に戻るであろうこと、それに追随するしかないと観念しようと思いつつまだ諦めきれないケリーの心理は、ラフな真紅のブラウスにジーンズでヒマラヤの本を読んでいたかと思うと「ハーパーズ・バザー」に持ち替える、という挙動で表される。