海

三月のライオンの海のレビュー・感想・評価

三月のライオン(1992年製作の映画)
-
3時ごろ、これを観終わって、テレビを切って、気をうしなうみたいに眠った。夢を見た。よく知る海辺の町の、古い錆びた、狭いアパートにわたしは住んでいて、朝はやく、彼を送り出した。さむがりの彼は、紺色のジャンバーを着ていて、わたしは「傘さして、風邪ひかないでね」と、絶対ささないだろうなと思いながら、ビニール傘を渡した。階段をおりる音を聞きながら、玄関から下をのぞいて、彼がおりてくるのを待ってて、そうするとうしろあたまじゃなく、白い傘が見えて、彼は傘をさしたまま車まで歩いて行って、「さっき手渡した傘だ」とおもうと、こらえられなくて泣いてしまった。目がさめるまで何度も、彼が出て行くときの笑顔と、右の横顔と、傘をさして歩いているところを繰り返した。暑くて暑くて、汗をかいて喉がかわいて、目が覚めた。ゆびのさきが、まだ夢の中につかっているみたいにあまくしびれて、どこか気持ちいいのに、どこか怖い、感覚だった。

好きなひとと暮らすということが、どんなふたりであれ、そのことだけでどんなに美しくて愛しくて焦がれるべきことなのか、本作を観ながら、ただそれだけをおもっていた、本当にずっと、そのことしか考えられなかった。雨が降る朝もあれば、夜中、地震に目覚めることもあるだろうし、お盆、お墓に行くまえにデパートの地下でお線香とお花を買ったり、そばにいるのに言葉もなく、ただふたりをひとりずつに分けるおそろしい孤独の中につつまれることもあって、そしてどんなときでも、春の風がまたあなたをなでて、何度でも通りすぎて、あなたの匂いがして、泣きたくなって、それをずっとずっと季節がめぐるたび感じていることだけを、わたしは望んでいるだろう。痛いほどわかる、それがどんなにいとしいか。彼に、心から夢中で、寝ても覚めてもいっぱいだったころ、わたしを眠りから起こし、夢から覚ましてくれるのは彼だけだった。今さみしくはなくても、彼の夢はよく見る、思い出して泣くことも時々ある。愛情の表現には、たくさん種類があるでしょ。抱きしめること、キスをすること、セックスをすること、子どもをつくること、いっしょに暮らすこと、そのひとの好きなものをじぶんも好きになること、そのひとの目から見る世界を知りたいとおもい隣に立っている時間、そんな共有だけじゃなくてときにそのひとの孤独をゆるすことも、挙げきれないほどある。わたしのなかにもたくさんあったし、それを否定されたことも、馬鹿にされたことも、哀れまれたことも、傷ついて今も癒らない痕も、たくさんある。わたしには、兄を好きになった妹の気持ちはわからないけれど、「ハルオ」を好きになった「アイス」の気持ちは、ものすごくわかるような気がするの。悲しみとか苦しみとか、喜び。アイスが部屋に入って一番に窓をあけるのをみるたび、わたしみたいだと思った。最近は猫の絵ばかり描いてる、いまのわたしを夢から連れ戻してくれているのは猫だけだから。どうか罪悪感なんて覚えないで、どんなに悲しくてもひとりぼっちでも、お願いだから泣かないで、いけない恋心など無い、おさえきれる愛しさなど無い、恋をすることは夢を見ることだそして夢から目覚めることなんだ「帰ろうねふたりでふたりだけの知る場所へ。」アイス、あなたも、あなたを買った男も、あなたの愛したひとも、あなたを見てたわたしも、頭がおかしくて、感覚も普通じゃなくて、心は狂っていて、あかるみにはわからないことだらけで、傷ひとつない傷だらけのからだがあり、そして書ききれないほどの愛した記憶は波打際で見ている波のようにくりかえされ、まえもうしろも、みぎもひだりも、雨も桜も雪も風も、何度もあなたを思い描く、あなたがいて、あなたがいて、あなたがいて、知らないわたしと、知ってるわたし、ほんとのうそとうそだよのほんと、泣いたり笑ったりふしぎなかおしてるわ、傘をささないで、ふたりを見ている、夢を見てる、そんなふうにあいしている、

あなたがいる。
海