あなぐらむ

貸間ありのあなぐらむのレビュー・感想・評価

貸間あり(1959年製作の映画)
4.7
やたらとスクリューボールと言ってる人が多い印象だが、本作は上質な上方創作落語の味わいのある作品だと思う(原作の井伏鱒二の小説は荻窪が舞台)。
「わが町」にも登場する、べたべたな大阪の貧民街に暮らす有象無象の人々の機微を、遊郭ではなく下宿「アパート屋敷」で再現した、グランドホテル形式の「幕末太陽傳」改訂である。藤本義一の筆が冴え、のちの「犬」シリーズの助走のようでもある。

トリックスターに小沢昭一という外部の人間を放り込む事で、川島雄三お得意のスーパースキルマン、よろず請負業の五郎さんことフランキー堺の自己韜晦の日々、いやさ自分を欺く青春の日々の終わりを、藤木悠、乙羽信子、市原悦子、増田喜頓、山茶花究に清川虹子といった当時最強クラスのクセ強演者たちが彩っていく(小沢昭一が受験マニアの学生なのは、五郎に乱反射する鏡だ)。
五郎さんのよき相棒、洋さんこと桂小金治も好サポートで、ほんとに落語を聴いているような気分にさせてくれる。
おけいちゃん(淡島千景)とのロマンスが軸にあるので、落語を数珠つなぎしていた「幕末」よりもお話のぶれが少なく、前半から蜂、軟膏、猫など様々に準備してあったスラップスティックの種が後半爆発していく様は痛快。
藤木悠のかき回し、要所に「はぁん」と入る西岡慶子の声は合いの手のようだ。

実際の所、お千代さん(乙羽信子)が田舎の風習の為に三人の愛人と切れる大芝居をみんなで打つ席までが大いなる前説であり、小沢昭一と福岡へ本試験に向かう部分が本題である。その前段として、五郎さんが風邪をひいて咳き込む描写が後半登場し始める。風邪だと本人は言っているが長患いだ。そして本番で彼は受験代行がばれてしまう。旧友の小松(加藤武が配されており、「大人」である事が明示される)の前で彼は、自らが続けてきた「大人にならない留保の時間」をまざまざと感じる事となる。それ故、ユミ子さん(おけいちゃん)の手紙がしみじみと効いてくる。

川島雄三は自身の障がいと病弱な体を常にコンプレックスに持っていた。それを様々な形で自作に反映している。「わが町」「とんかつ大将」そして「幕末太陽傳」。佐平次も肺病で先が長くない故に「居残り」をし続けて、残りの生を無為無法に過ごそうとするが、若い二人の門出と高杉晋作の生き様を見て、踏ん切りをつけたかのように逃走していく。品川からずっと遠くへ。
五郎さんも同じように、職を決めていながら、福岡から鹿児島へと逃走していく。ユミ子さんという答えから逃げ続ける。"ツンツン"が分かる相手ともう一度行き会ってしまったら、恐らくそこで彼の「遊びの」人生は終わる。
洋さんはいつか帰ってくる人の為にまた「貸間あり」の札を上げるが、恐らく帰ってくるのは五郎さんではない。
そんな狂騒のあとの強い無常感に、しょんべんの虹がかかってお話は終わる。

井伏鱒二が「さよならだけが人生だ」としたのは、元々は林芙美子が言ったものを「借用」しているそうだ。そういう意味でラストで川島雄三がそれを使うのは二重の引用となっており、これこそ、彼の狙う所であったろう。