あなぐらむ

ミッドナイト・ランのあなぐらむのレビュー・感想・評価

ミッドナイト・ラン(1988年製作の映画)
4.6
ムービープラス吹替追録版を鑑賞。池田勝+羽佐間道夫&安原義人!追録部分の羽佐間さんの声がどうにも老けてしまっていて悲しかったが、これは仕方ない。
最初に観たのは新宿だったか。友人とジャックがFBIのバッチ見せるシーンの物まねを何度もした。「演技者」ロバート・デ・ニーロがそのエッジの部分をそぎ落として演じた、この時期の彼らしい作品である(「未来世紀ブラジル」のタトルもこの軸線にある)。

物語のベースラインはハリウッドの定番「家族再生と男の復権」ものである。手錠のままの旅ものもまたしかり。ここでは新しい事は何も起こらない。今まで幾度となく見てきたB級映画の要素だけで構成されている。それでいい。中々しっくり行かない(面白いものにならない事が多い)こういったジャンルのピースがパチパチと音を立てて填まって行く、面白くなっていく快感を、観客は体感する事になる。

だいたい、バディムービーというのは丁々発止、あぁ言えばこう言う、ワイズクラックが重要になるわけで、それを本作の相方のデューク・マデューカス役・チャールズ・グローディンは非常に巧みに演じている。刑事が粗暴で捕縛した犯人が利口、というのは「48時間」と同じ構図なのだが、お互いにちゃんと理由があって互いの立場になっているのが良い。
当初デ・ニーロが羽佐間さんだったそうだが、入れ替えて大正解。実に軽妙にこの一見真面目なおとぼけキャラを見事に演じて味わい深い。

これにおバカなFBI(定番ですね)ともう一人の抜けてる賞金稼ぎ・マーヴィン(ギャグ担当。「マーヴィン!」ボカッ!)が絡んで、すったもんだの道中は思いがけぬ家族の再会の機会となり、ジャック・ウォルシュという男の無骨で不器用な人生が照射されていく。いつか(妻との時間が)また動き出すかも、という理由でずっと動かない腕時計をしている男。それが彼だ。対するマデューカスも悪党の大金を横領して寄付をする会計士というのがまた憎めなくて抜群な設定だ。口八丁な彼ならさもありなん、と思える。
(飛行機のネタが全部ウソだというのが良い)。
アメリカ西部の広大な風景がこの二人のやさぐれた中年男の心象風景となり、同時に彼らの捻じくれた友情を育んでいく。

ヘリチェイスやら滝壺に落ちるやら、およそこの頃のハリウッドアクションの定食をこなしつつ、物語は進む。彼らは友情を抱きながら、やがては別れる身だ。互いに結果的には自慢できた人生ではない。だからこそ「来世で会おう」と誓う。「いつかまた会おう」ではない。これは永遠の別れを告げているのだ。

監督のマーティン・ブレストは「ビバリーヒルズ・コップ」と本作でもっていきなりのキャリア・ハイに到達したような監督だ。その後、今度はアル・パチーノで「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」も撮り、ハートウォーミングで「アメリカらしい」映画を撮る監督である事が言える。彼が志しているのはオールドハリウッドな作劇だろう。映画における必要十分条件のみで勝負するタイプである。荒っぽそうで実にストーリーテリングが丁寧で、いい定食屋に出会った気分になる。
撮影はドナルド・E・ソーリン、「クラッカー/真夜中のアウトロー」もこの人なのね。プロな男一匹を撮らせて比類なし。こちらも必要十分な撮影である。

現状のハリウッド映画は足し算の映画作りだ。要素を盛り、シーンを盛り、上映時間もマシマシで、それは家系ラーメンのニンニク多め、のようなものである。必ず飽きが来るし、腹を下す。本作を久々に観てみると、あぁ、映画ってこれで十分面白いんだ、としみじみと感じる。映画は引き算で成立すべきものなのだ。だからこそ本作は、名だたる役者たちが賛美を惜しまない映画なのだ。