あなぐらむ

異人たちとの夏のあなぐらむのレビュー・感想・評価

異人たちとの夏(1988年製作の映画)
3.7
大林が大嫌いである。
これは非常にアレルギーに近い「嫌い」である。学生の頃、先輩の製作の冒頭の字幕で「A MOVIE」とか入れさせられたからではない(黒ラシャに白字で書いたのよ。今の人には想像できんでしょ?そういう時代)。「HOUSE」はかろうじて好きなのは桂千穂さんが脚本だからで、本作も市川森一が脚本だから、見たようなもんである。原作者・山田太一さんの訃報があったので、この機に記しておく(大昔の映画ノートに記載)。
もの悲しく、かつ優しい映画である。このテイストは、テレビドラマの両雄であった山田・市川両者の味わいであろう。映画はやはり市川が脚本を担当しているので、市川の色が強い。

バブル経済崩壊と同時に、都市生活者の無味乾燥さがどっと人々に滲んで、その裏返しのように都市論ブーム、東京ブームがあった。ちょうど今の「昭和」を回顧する若者と同じような軸線で、戦後の貧しい時代にオリジン・原風景を見る人々がいた。そんな頃のお話である。
郷愁と癒しと反対に身体が衰弱、老いてしまうという構図は、初老に入っていた山田や市川にとってテーマとして捉えやすいものでもあったろう。どちらも手にする事は現実には出来ないのだから。市川には「もどり橋」というこれも老いをテーマにした傑作テレビドラマがある。

「あたたかい下町」。それは東京という街が急激に失っていた「優しさ(というよりは受容性)」とコミュニケーションの足りた生活そのものである。都市人はずっとこんな事を言いながら、三井不動産に魂を売っているのである。
本作で主人公が出会う亡き両親の魂さえ生きていける場所:浅草(松竹から見た東京らしい場所。小津は銀座より西は東京と認めなかったいう)よりも、都市化した東京自体が死人の街のであるかのように見える。この辺りは大林宣彦の持つ強いノスタルジー志向とうまく呼応した点だと思う。同時にケイという女性を「魔女」的なポジションとして描く事で、少女しか見向きしていなかった大林に新しい視点を提供したようにも思う。

死人は現出しても死人である。生きていく者(主人公)は優しき「さまよえる魂」である異人たちに「ありがとう」と言って生きていくしかない。そして「どうかしていたんだ」と現実の中の自己に踏ん切りをつけていくのだ。これは大人の、もう一度の「親離れ」の物語である。

松竹の顔、として風間杜夫の起用となったかどうかはわからないが、少しくたびれたインテリを、彼独特の少しくさめの芝居で演じていた。亡父を演じる片岡鶴太郎はのちの活躍を予感させる演技者ぶりだった。名取裕子は俺は苦手なので、秋吉久美子がそっちに回ってくれた方がよかったかな。

撮影は大林のコンビである阪本善尚が担当。視覚効果を使う大林組の事をよく踏まえた手堅い人だが、このあと村川透と「BEST GUY」をやっていて、そちらは堂々たるハリウッド風撮影監督ぶりだった(関係ないっすね)。

東京論ブームの際に、東京とは巨大な霊場である、という論説があった。東京大空襲のあとに築かれた新たな都市・東京は、多くの死者の霊の上に成り立っているのである。何十年かに一度の「再開発」でもって、ますます下町の景色、昭和の風景は消えていく。1988年の記録として、観ておいてもよい映画だと思う。