あなぐらむ

猫のようにのあなぐらむのレビュー・感想・評価

猫のように(1988年製作の映画)
4.4
日活ロマンポルノ終了の年にひっそりと公開された、中原俊の半分一般作品である。自分はレンタルビデオで観た。当時、11PMのカバーガールだった主演の橘ゆかりの大ファンだったからだ。
さて本作、監督としての中原俊の色、"三角関係ライター"と自称する斎藤博(「セーラー服百合族」等)の色、それぞれがうまい具合に出ている愛すべき小品である。
姉妹の同性愛…ではなく過剰な姉妹愛かもしれないが…や、二人が同じ心理学の教師に想いを寄せ取り合う辺り(姉は彼に逃げ込みたいのであり、妹は姉の代わりを探している点で、彼へと向かう動機は異なっているが)は、斎藤博の得意技、妹の方はまた、同じクラスの女の子とも関係があったりするのもパターンといえばパターンである。
で、何故「姉妹」なのかという点こそ、中原俊を考える上で重要である。対比として"離婚した男性"を配置している事、寝る/寝ないだけで互いの関係性を見てしまう若者(入江雅人さんが若い)が描写されている事を考えても、中原がこの姉妹に何を求めたかは自明の理であろう。彼がインタビューでも再三語っているように、愛とか恋という言葉で認識される関係ではなく、もっと根源的な繋がり(中原の言う「幸福な時間」)を持つことを血縁という位置的な関係に求めたものだろう。他人ではないからこそ持てる関係性。もっとも、物語はサイコ・スリラー的な側面さえ持ち、その関係性を持ち得るまでをドラマティックに描いている点で、後の『櫻の園』とは異なる。『櫻の園』では既に起こりうるドラマ的なるものを極力排除した(非常ベルが申し訳程度に残されている)上で登場人物の心の揺れのみを映し出し、全ての人物を個人としてきっちりと捉えきることによってその意識の微かな交わりに「幸福な時間」を見出す。より、人物へと向ける視線を深化させていったと言えよう。

『ボクの女に手を出すな』で活劇の作家としてミソをつけた中原だが、本作のクライマックスは充分に活劇の要素を持ち得ている。ただ、せっかくのその流れは姉が妹の頭を「ぺちゃっ」と叩いた瞬間に綺麗に崩壊する。同時にそれまで描かれてきた葛藤もすべて無意味だったかのように雲散霧消してしまう。ここがいかにも中原俊なのだ。全ての時間は画面にストップモーションがかかった瞬間に停止し、凝結して永遠となる。彼の映画が停止して(それを感じさせて)終わるのは、当然の事だがその先は必要ないからである。時間がその先も進んでも、どうしようもないのだ。キャラクタードラマを、中原俊は否定している。映像の中の幸福な時間こそが、永遠に残されるものなのだ。諦観に裏打ちされた刹那主義。それはこの後やってくる、異業種監督たちが濫作するミニマムな日本映画(あえてこう書く)の預言として、まずあったと言える。

80年代後半から90年代の藤沢順一の撮影はどんな監督の作品でも素晴らしく、中でも中原との仕事は非情に印象深い。本作でのたゆたう様なカメラワーク(ボールが落ちるシーンや図書館でのシーンのシャープさも含め)、大変心地よい。映画の愉楽である。何よりも二人の主演女優を美しく捉えているのが見事だ。彼独特の自転車や階段での歩行に合わせた移動撮影も抜群である。編集の冨田功もまた、同様の素晴らしさである。

橘ゆかりは本当に美しい。ポスタービジュアルから震えがくるほど美しいが、その拙い芝居(彼女は『櫻の園』では、まるで中原作品の「卒業生」であるかのような登場をする)がまた主人公の幼さゆえの狂気を感じさせる。姉役の吉宮君子のはかなげでありながら芯の強さも感じさせる芝居もよい。

結果的に中原俊のキャリア・ハイは非常に初期の段階で訪れてしまい、同じ日活ロマンポルノ出身でありながら金子秀介のような時代に応じたジャンルレスな監督にはなれなかったが、前述のようにすでに「幸福な時間」はいくつかの映画で実現され・永遠に凝結している。それでいいじゃないの。それもまた、映画監督のありようである。