あなぐらむ

男はつらいよ 拝啓 車寅次郎様のあなぐらむのレビュー・感想・評価

2.7
BSテレ東の「土曜は寅さん」枠で鑑賞。48作の前週に鑑賞している。

本作も渥美清の体調のため、お話としては満男はつらいよとして落とされていくのだが、Wikiによると当時流行した「マディソン郡の橋」を意識したちょっとした不倫ラブロマンスを目指して作られたとの事。どうしたらこうなるんだ。
即ち、かたせ梨乃扮する既婚で夫(平泉成さんが若い)と不仲な女流カメラマンと、寅との淡い恋(にもなってないけど)だ。それを並行して、満男の泉以外の恋も描かれている(っていうかお前、泉好きだったんじゃねぇのか?砂浜に名前書いてたじゃん。どうしてこうなるよ)。滋賀県の湖北で描かれるこの一連の物語は、表向きのテーマとは別に当時の「結婚観」に対する問いかけを行い、ひるがえってここでも、寅という男の不自立性を導き出し、同時に松竹大船が長く映画作りの根幹に据えてきた「娘の結婚」という価値観についても、さらっと異議を申し立てる。それは、山田洋次が尊敬している筈の小津安二郎映画へのアンチテーゼにさえ、俺には映った。実に意地が悪い。

お話の主体は、牧瀬理穂演じる満男と親しくなる(田舎の旧家の)娘さんの方にあって、満男はこの娘の、身勝手で家制度の権化みたいな兄・山田雅人(いい具合に演じている)の奸計によって満男と無理やり結婚させられそうになるのだが、彼女はそれに否をつきつける。父親役が河原崎長一郎なのも如何にもで、そうした枠組みを作っておいて、物語は二人を結婚をさせない。かたせ梨乃の方は「飛んでる女」と行きたい所を結局旦那に連れ戻され、江の島で結果的に幸せに暮らす事になる。満男は結婚しなくて良かったとも言う。そこで寅に、失恋コレクターたる先輩としてのきつい叱責を受ける事になるのだが、この二人は劇中でも言われるように相似形なのだ。なんとなく良い話はなっているが、彼ら二人ともが宙ぶらりんであり、女たちの方も選ぶのは「現状維持」である。牧瀬理穂は親からのお仕着せで結婚したくはないと言っているが、だからと言って都会人になる事もせず田舎の郵便局員で居続ける。「マディソン郡の端」は不倫の物語であるのに、題材だけさらって別の所に着地させている。男性は宙ぶらりんを「優しさ」でごまかし、女性にはプラトニックで通す。それは「顔で笑って心で泣いて」いる訳ではなく、意気地がない事、責任を回避する事とイコールである。1994年、80年代後半から元気がなくなった「男性」の弱さを、満男は体現する。モラトリアムを生きる。モラトリアムとは大人になるのを意図的に先延ばしする事だ。車寅次郎とは生粋のモラトリアム青年でった。そのことを本作は端的に描いている。そして「男は結婚すること」「所帯をもつこと」という古い価値観の上に本シリーズがずっとありながら、時代とともに到達した地点がここだったのを、山田洋次は「何もさせない」という事でもって示してみせたのだ。この、渥美清の生命を削ってのシリーズの延命措置は、図らずも現代の男性性の「つらいよ」な部分を如実に示したわけである。罪深い。