あなぐらむ

風船のあなぐらむのレビュー・感想・評価

風船(1956年製作の映画)
4.2
大佛次郎の原作は一種のニヒリズム現代文学として評されたようで、本作も今村昌平が脚本を共同執筆している為か、川島雄三の重たい方ばっかり全面に出ている腹にもたれる映画ではあった。
言ってみれば、小津安二郎がオブラートを被せて見せていたものをそのまま飲ませるような、そんな家族が壊れていくまでのお話である。対立軸として戦中を強かに生き抜いて戦後を謳歌する若い世代(二本柳寛と北原三枝)のニヒルかつ享楽的な価値観が配置され、それが即ち「風船」である。

映画は戦後10年ほどで既に空気の抜けの悪い、ガラガラポンだった世相を映した閉塞感に満ちていて、それには労組問題という赤い風が吹いていた時代が反映されてもいよう(劇中にもストライキ、デモの表現が背景として描写されている)。
そう、言ってみれば本作の人物はそれぞれの立場、役割に対してストを起こすのだ。社長は会社を辞め、安穏としていた総領息子は放り出され、愛人は役目御免とばかりに捨てられ死んでいく。妻であり母親である人も、妻の役割を降りる。日本の伝統的な「家」の構図が、戦後民主主義という名のもとに形骸化し崩壊する事を、小津のようなペーソスではなく苦みでもって川島は描き出す。東京と対比するようになぜ京都が置かれているのか。そこには古い「家」があるからである。そこには向こう三軒両隣が親しくする文化が因習と共に残っている。心に風が吹き抜けるような感覚を持った老社長(いい老けメイク)森雅之は、つらかったであろう絵描きの修業時代へ籠ろうとする。人の温もりの方へ。左幸子がそのフックとして綺麗に作用している。

家族を結びつけている/縛りつけているのは小児麻痺でお頭の足りない(うっすら戦後の貧しさの影をずっと纏った)芦川いづみの娘である。戦前も戦後もすべて帳消しにしてしまうような清廉で穢れない彼女は、実際には兄にも母にも疎ましく思われている。彼女は原節子のように家族を結び付けておくクレバーな面は無い。ただ、そこに居るのである。この魂は川島雄三というよりもむしろ今村昌平の好みではないかと思わないでもない。そしてこういう役を演じる時の芦川いづみは半端ない破壊力がある。観ている者を厳しく責めるようなそんなイノセンス。恐ろしい。

三橋達也と新珠三千代の川島組常連が人のダメな部分を背負って見事にその遣る瀬無さを演じてみせれば、二本柳寛と北原三枝の「根無し草」チームも嫌な奴ぶりを見事に発揮、特に北原三枝のあのふてぶてしさは、まき子本人…じゃない、えっと、あれだ、女優魂だ。シャンソンは多分吹き替えだけど、華麗なローラースケートダンスが見られます。

冒頭に振っておいたセリフが後半にすっと効いて、助かったと思った新珠三千代は死ぬ。眠り姫のおとぎ話は、現実には通用しないのだ。どこまでも薄情な息子を置いて京都で隠遁生活を送る老父、森雅之は、一人やってきた娘、芦川いづみの姿を盆踊りの中に見つける。だが彼女が一人、東京からやって来れよう筈もない。彼女は決して父の方を見て手を振ったりはしない。ずっと踊っている。それは老父の観た幻、いや願望なのではないか。そんな風に俺には思えた。